ある秋の日に、
「これ書いたの、誰ですか」
といって、見知らぬ女の子が部室のドアの向こうに立っていた。細身の黒いパンツに、赤いダウンのジャケット。おれは大学生で、一応文芸系ではあるけれど文芸というよりはお酒を飲んだりみんなで山や海に出かけたりする方が楽しいといったような、つまり詩というよりは、ポエムといった方が似合うような、キビシク議論したりするよりは、ギターを弾いて歌でも歌っていた方が幸せであるというような、そういう軟派なサークルに身を置いていた。
「これ」というのは、みんなで青いガリ版用紙を鉄筆でかりかりと刻んで作った40ページくらいの部誌に掲載していた「電信柱の定義」という文章だった。原稿がないので再現できないのだが、要するに電信柱を定義したものだ。
あるひとつのモノゴトについて、一人の人間がそれを定義しようとした場合、そこにはいくらでも主観をまぎれこませることができる。あるいは、主観を排除することはできない。となると、ひとつの約束としてそこにある、言葉とリンクしているはずの存在の意味と価値というものは、どんどん輪郭が薄れていって、やがて解体に至るのではないか、といったようなことを示唆しつつ、電信柱に関する認識論的な個と普遍の関係を鋭くもえぐり、さらに笑いもとりたいという、まあ当時、ちょっと流行りかけていた記号論の文学的展開をなぞったパロディであった。
そういう着眼とココロザシがあったのだけれど、結局、最初に電信柱を定義したところで、ああ、なるほどと自分で納得してしまい、そのシリーズの続きは書かなかった。
小説は頭脳がないと書けないけれど、詩は刹那的な瞬発力があればバカでも書ける。ただし、根気がないとまとまった仕事にはならない。おれは、タイプとしては根気のないバカであった。
「あ、ぼくですけど」
そういって、カップラーメンの食べ残しやら山盛りの灰皿やら、書き散らした原稿用紙やらが、わらわらと積もっているテーブルから立ち上がろうとしたおれの足もとは、ちょっとよろめいていた。小柄で細い肩。大きくてきれいな瞳。でも、とても強い瞳。それまで会ったどんな女の子にも似ていなかった。
鼻先がトナカイのように赤く酒焼けしたブルースボーカル、マル経くずれの理論派、とりあえず軟派しか頭にないやつ、全然詩を書かない自称詩人、創作よりも議論の刃を磨くのに懸命だったやつ、酒屋のぼんぼん、競輪狂い、いろいろいたけれど、みな瞬間、無言でどよめいた。あまりにもこの場に不似合いな、きりりとした存在感の女の子。
「あのさあ」と、いつもの調子でサワダが言ったことをおれは思い出していた。
「remi って女がいるわけよ。なんつーか、とんでもない女でさ。写真科に通ってるんだけど、ものすごい詩を書いてさ。こないだインドに行って帰ってきたら、頭、坊主になっててさ。なんか裸足で学内、ぺたぺた歩いてたっていうぜ」
サワダは、そいつが好きなんだと言った。好きなんだけど、好きとかそういう対象になるような女ではないから、お前会ってみたらと言った。
「そいつもバケモンだけど、お前もちょっとバケモンみたいなところがあるから、気が合うかもしれん」
「バケモンは勘弁してもらおうか」
「可愛いぞ。パリの女の子みたいに」
「お前なあ」
「ほんとだってば」
おれは少し心が動いた。
「誰に似てる」
「まあ、ナスターシャ・キンスキーだな」
実際のところ、部室に入ってきたremiちゃんはナスターシャ・キンスキーよりも可愛かった。男所帯で、日がな詩が物語が合コンがといっているさなかに、ちがう大学に通っているナスターシャ・キンスキーよりも小柄で可愛くてきりりとした女の子が入ってきたら、その場の男たちはどうなるか。
「固まる」あるいは「引く」というのが正解である。
人には許容範囲というものがある。まったく想定できていない状況で、あり得ないことが起こってしまうと、「いやいや、ようこそ。何のご用でしょうか。え、『電信柱の定義』、それはこいつが書いたんです。面白い文章ですよね。まあ、おかけください。ところでクラブとか入ってます?よければ合コンしません?」なんてことは言えないものなのである。
ただ、みな無言でどよめき、一斉におれの方を見た。それで「あ、ぼくですけど」と立ち上がったおれの足もとが少しよろめいていたのは、そこに立っているのが噂のremi ちゃんであることの確信と、似てるという話だったN.キンスキーよりも、ずっとそいつが可愛かったからなのだった。
それから、何がどういう成り行きになったのか、よく覚えていない。間違いなく仕込みはサワダがやったのだ。やつがremiちゃんに、「変なやつがいるけど会ってみる?ちなみにこれが、そいつが書いたもんだけど」とかいって、ガリ版を渡したのだ。
それがしょぼかったら、もしかするとおれは今、こうしていないかもしれない。その日から始まったことは、今、おれの基礎になっている。
とにかくその日、おれは彼女の家に行った。どうやって行ったのか。庭に小川が流れているような大きな家。
部屋に二人でいた。「こういうの、好きでしょう」とマル・ウォルドロンのALL ALONEをかけてくれた。聴いたことはなかったけれど、たしかに好きなJAZZで、オーディオ装置が置いてある部屋の奥の少し薄暗いところから流れてくるそのピアノは、なんだかその時の空気によく似合っていた。
「なんで好きだとわかる」
「私が好きだから」
部屋には石膏の胸像があって、宮澤賢治の『春と修羅』の詩が、マジックで書かれていた。「わたくしといふ現象は...」と、トルソが宣言しているようでおかしかった。そして、白熱灯に照らされたテーブルの上にのっていた50mmレンズをつけたニコン FMの黒くてかちりとした小さな筐体もまた、持ち主がカメラに化けたみたいによく似合っていた。
写真の話はしなかったし、詩の話もしなかった。かわりに飼っていたハムスターだか、なんとかネズミだかの話を彼女がした。
「一度死んじゃって冷たくなってたんだけどね。数時間後だったけど、ちょっと動いたっていうんで、心臓マッサージしてやったら、よみがえったのよ。急に二本足で立ち上がってさ。ぎょえー、っていって生き返ったの。すごいよねえ」
いきなりそういう話をするお前の方が、よほどすごい。
夜中に女の子の部屋に二人でいるわけだが、恋愛感情もへったくれもなかった。何しろ数時間前に初めて会ったのだ。すげえやつがいるなあという、ただそれだけの思いに圧倒されていた。
たいていの映画なら、その夜にナニゴトかが始まるものである。たしかに始まったのだが、それはそのよーなものではなかった。
「会わせたい人がいる。さっき電話して松橋から来てもらったの」といって、おれの前に現れたのは、浅川浩二というカメラマンかつミュージシャンだった。こいつとの出会いは、ほんとに素晴らしかった。おれは今、非常にリキんでいうのだが、5人の女との出会いと引き換えてでも、こいつと出会った方がいい。
ふだんremiちゃんが寝ているベッドで、初対面のおれと浅川は一緒に寝て、やがて男二人で寝物語を始め、朝までげらげら笑い転げていた。ベッドから這いだした時には、二人ともへとへとになっていた。こいつのギャグは、いちいちおれのつぼにはまった。
どうも彼女に見切られている。まともに術中にはまってしまった感じだった。
浅川には、音楽にも写真にもまれにみる才能があった。生まれながらに人を楽しませる能力があり、それはものすごく高度な技術とセンスに裏打ちされていた。こういう男を前にすると、「感性」などという、とりたててできることがないおれのような人間が唯一よりどころにするしかないものが、あっという間に色あせてしまう。そしてそれは、とても気持ちのよい体験だった。結局、おれには何もないのだなあと、しみじみと掌を見つめてみたりした。
そのおれの右の掌には、真ん中にバッテンマークがある。神秘十字線というらしいのだが、これを持つ人は占い師に向いているらしい。いずれやることが見つからなかったら、占い師にでもなるかと思っていた。要するにremiちゃんや浅川のようには、おれはやることが見つけられないでいた。
天分のかたまりである浅川は、あまり天分に恵まれないおれを気に入ったらしく、何度か松橋から遊びにきてくれた。ある時、ちょうどおれは部屋でバルサを削っていた。
「おう、何してんの。木なんか削って。悪いことか」
「グライダー作ってんの」
「小さいじゃん」
「ハンドランチグライダーって知らないか」
「聞いたことがある」
「子供の科学。誠文堂新光社。山森喜進。」
「知ってるぜ!」
「そうだろうな。お前みたいなやつは大体知ってる」
「飛ぶのか」
「うまく上昇気流に乗ればな。旋回しながら上に上がっていくんだ」
完成した翼幅25センチくらいのグライダーを持って、おれたちは浮羽の田んぼに飛ばしに行った。いくらなんでも大の男が二人でやることではないような気がするのだが、その日、おれたちは日がな田んぼを転げまわり、ぎゃはははと笑いながら、小さなグライダーを飛ばした。
remiちゃんの噂は、その後もサワダから聞いていた。ある夜、中洲で「んにゃろ」といって大きなベンツを蹴飛ばしたら、中にヤクザが乗っていて、顔が変型するほど殴られたとか。
二日市で飲んでいて、駅前に自転車があったのでそれを盗んで帰っていたら、坂道でこけて前歯を二本飛ばし、口の中が血だらけになりながら、途中でちゃんぽん屋に寄って焼酎を二合飲み、ちゃんぽんを食べて帰ったとか。
彼女の話をする時、サワダはとてもうれしそうなのだが、そんなに好きならなぜ本気でほれてしまわないのだと、おれはちょっと不思議だった。手に負えないのがわかっているというのだが、そんなことがあるものか。愛は国境を越えるというではないか。
「それはなあ。お前にはそうだろうけどさ。おれはもっと普通の子がいいのさ」
そういいながら、サワダはおれとremiちゃんを引き合わせたことで、何が生まれるのか楽しみにしていた様子ではあった。買いかぶりというものだ。
大体、サワダとremiちゃんと出会いというのは、設定としてはそこらのB級ドラマよりもずっと劇的である。というか、ドラマというものがない。
高校を卒業して博多のライブハウスで働きはじめたremiちゃんは、その頃、職場に近い天神に住んでいた。同じように夜働いている友だちと、「夜の友」という二十人にも及ぶ仲間を結成したremiちゃんは、仕事が終わってもアパートになかなか帰らず、毎夜のように朝まで飲んでいた。
それにも飽きて、屋台で一人で飲み、その屋台の撤収まで手伝ったりしながら、だんだんと自分のありようとか、ありかとかいうものを考えるようになっていた。そして、夏が過ぎて夕暮れなどは少し肌寒くもなってきた頃。
「なーんかライブハウスも、朝まで飲むのも、路上で詩集を売るのも、大体わかってきたけん、次に行かんとね。ネクスト、やね」
と考えたremiちゃんは、大学でも行くかと近所にあったES学館という予備校にモグることにした。モグるというのは、つまり正規の生徒としてではなくて、教室にまぎれこんで勉強をする。という戦術である。当然、教科書などは持っていないので、そこらの学生のを見せてもらうことになる。
「あのさ。あたし、モグリやけん教科書持っとらんと。明日から見せてくれん」
「ついでに、あたし夜の仕事しよるけん、朝起きられんと。アパートに起こしに来てくれるとうれしかとけど」
その声をかけた相手が、たまたまそこにいたサワダであった。いわばサワダは、縁もゆかりもない状態から、突然強烈にremiちゃんと縁をつなぐことになったのだ。こいつは律儀にも翌日から、remiちゃんのアパートに毎日迎えに行き、ひとつの教科書を二人で使いながら予備校に通った。そしてこれが信じられないのだが、このサワダという男はアパートへに迎えに行く時に、いつもほかの友だちと二人で行ったというのだ。
ありえへん。
と、おれの頭の後でガネーシャが言った。
あれを恋と呼んでいいのなら、おれはそれからremiちゃんに恋をした。remiちゃんは時々、おれの町に遊びに来るようになっていた。
詩や写真がきっかけではあったにしても、作品はほとんど見せてもらった記憶がない。もう見る必要もない気がしていた。おれたちをつないでくれたサワダと三人で会うこともあまりなかった。remiちゃんは、まずサワダの下宿に遊びに行き、それからおれのアパートに来た。久留米市千本杉。トラックや車がひっきりなしに通る国道322号沿いのビルの2階がおれの根城だった。正面が消防署だったので、どんなに深酒をしても正午になるとサイレンでたたき起こされた。
ある夜。こたつの天板にノートを広げて、いつものようにナニゴトかを書いていたおれのところへ、白波の一升瓶を抱えたremiちゃんが「飲もうぜ!」といって入ってきた。「なんだよ」といいながら、おれはうれしかった。男でも、なかなかこんなやつはいない。
彼女が五合くらい飲み、おれが三合くらい飲み、二合くらいあまったところで朝になった。それから二人で朝妻の通りを歩いて学食へ行き、熱い味噌汁を飲んで別れた。いつも、ふやふやになっている麩が、早朝なものだからしっかりしていて、味噌汁はあざやかに香った。あざやかに香るしっかり麩の味噌汁で、しゃんとなったおれたちは、じゃあねといって別れた。
会いたくなると、手紙を書いた。そうすると何日かして、彼女がやってきた。会ったところで、恋人のような状況にはならないのだけれど、そういうことはすぐに通り越して、肩を組んで大声でわめきながら通りを歩く同志のような関係に、おれたちはなってしまっていた。
何かというと「つ・ま・ら・ん・や・つ」というremiちゃん。ぎりぎりにとんがっているくせに、そのセーターの下のガラスのように薄い肩。何か不本意なことがあると唇を噛む癖があったらしい、おれの真似。そういう、ひとつひとつが、そのすべてが愛おしくて仕方がなかった。二人でいると、なんだか、弱い動物が寄り添っているみたいな気がした。何がバケモンだ。おれたち、こんなに弱いんじゃないか。
大学も卒業が迫っていたのだけれど、あいかわらずおれは探しものが見つからないでいた。あり得ないようなコネクションから、ある会社への就職を勧められたりもしたけれど、おれはそれを断り、ポケットに手を突っ込んで町を歩きながら、そのポケットの中で拳を握りしめていた。二人とも、この先、生きていくための何かを探していたのだと思う。それは仕事とか会社とかではなく、おそらく今しか見つからない何か。今見つけておかなくては、きっとこの先、よけいに見つかりにくくなる何か。
そしてある日、おれたちの時間は、互いの螺旋がねじ切れるようにして切れた。何が始まって何が終わったのかさえ、おれにはわからなかった。ひとつの約束も交わすこともなく、守ることもできなかった。
浅川とは、その後も何度か会った。
あいつも、remiちゃんには恋をしていたらしい。