2008年8月11日

トマス・キッドの日々

男の夏は海洋冒険小説である。と、リキんでみるのだが、実はこのジャンルの作品はそう多くはない。しかも、ぼくの好きな18世紀英国海軍もの、となると、ぐっと少ない。だから、惜しみつつちょびっとずつ読んでいる。

この数週間は、英国のジュリアン・ストックウィンが執筆を続けている「トマス・キッド・シリーズ」。筆者は11巻まで書くと宣言しており、現在、8巻。そのうち翻訳がハヤカワから6巻まで出ている。

このジャンルの永遠不滅の金字塔は、セシル・スコット・フォレスターの「ホーンブロワー・シリーズ」であり、おそらくこれを超えるものは出てきそうにない。人間の描写、心理の把握が、そこらへんの純文学など32ポンド砲でふっとばすほど骨太であって、これをライトノベルだと笑える人は、ちょっとさびしい。

そこへいくと、トマス・キッドの方は、正真正銘のライトノベルである。ちょっとそれはないだろうよ、というようなご都合主義な筋運びが平然と出てくるし、伏線が重々しかったわりには展開がどうってことないというような場面も多々ある。それでいいのだ。

そんなことよりも、47歳になるまで、まったく本というものを書いたことがない、英国海軍・オーストラリア海軍の船乗りだった筆者が、14歳で訓練船インディファティガブル号に乗り組み、15歳で水兵となったこの男が、体にしみこませてきた海の匂い、船の雰囲気というものが、このシリーズには濃厚にある。それは、ぼくのような海洋小説好きにとっては、またとない贈りものなのだった。

17歳のホレイショ・ホーンブロワーは、やがて提督となる男のしきたり通り、士官候補生からその軍歴をスタートする。一方、20歳のトマス・キッドは、真面目なカツラ職人であり、気晴らしにパブで飲んでいたところを強制徴募隊につかまって、重労働の下甲板に送り込まれ、囚人同様の陸者(おかもの)として軍艦の生活を始める。士官候補生どころか、彼にとってはただの水兵になることが、高く大きな壁だったわけだ。そもそも彼は、志願兵ですらない。

だから、ホーンブロワーが艦尾甲板から命令を発し船を動かす立場から海軍を描くのに終始しているのに対して、キッドは命令を受けシュラウドをよじのぼってヤードで命を張る視点から始まる。いや、それ以前の、下甲板にうごめく水兵ともいえない単純労働の世界からだ。こういう視点は、これまでになかった。18世紀の水兵の生活を、初めて克明に描こうとした作品だともいえる。

ストックウィンのもの書きとしての力量を、フォレスターと比較するよりも、神は細部に宿り給うというあの鉄則を思うべきだろう。航海中の帆の動き、船の傾き、下甲板の悪臭(この作家は匂いに敏感だ)、複雑なロープワーク、水兵、下士官、士官たちのそれぞれの心情と思惑、そうしたディテールの細かさに、感心しながら読み進めていけば、それで幸せだろうと思う。

ネルソンの時代、水兵から士官に昇進した男が120人いたという。そのうち22人が艦長となり、さらにそのうちの3人が提督にまで昇りつめた。士官が原則として貴族や領主から出てくるものであり、彼らが平民出身の下士官・兵を動かすという当時の英国海軍にあって、水兵から提督にいたるというのは、人生を5人分くらい経験しないと足りないほどの苦難と栄光の道だったのではないか。主人公トマス・ペイン・キッドも、そういう道をたどる。

おすすめはしないけれど、大事な愛読書というものがあるとすれば、ぼくにとってはこの本だ。

2008年8月 8日

雷の日々

わが家はここんとこ、三日ほど続けて雷雨である。始めの二日は夜に猛烈な雷雨となり、至近距離に雷が落ちるとどういう音がするものであるのか、ひさしぶりに思い出した。

さたーーーー!

というのである。

ごろごろ。どんどん。という中・遠距離安全型の音響に混じって、何度か、さたーーー!という音がして、あたりは昼間のように明るくなり、雨は盛大に降りまくり、外はえらい騒ぎだなと思いつつ、ソファに寝ころがって海洋小説を読んでいたら、末の娘が目に涙を浮かべて二階に上がってきた。

わが家は、オクサンと子供が一階に住み、ワタシは二階に住んでいる。猫が二匹いるのだが、ワタシになついている方は一緒に二階に住み、あまりなつかない方は一階にいる。同じ三毛猫なのに、なぜか棲み分け、主人も峻別する。不思議なのだが雷の話だった。

「どうしたの」
「雷が...」
「お母さんは」
「いないの。お姉ちゃんも」

末の娘が一階に一人でいて雷におびえているというのは、どんな父親でもフビンであろう。ぼくもフビンだったので、オクサンの名を呼ばわりながら一階に下りていったのだが、見当たらない。もしや、洗濯物でも取り込もうとしてベランダに出て、感電しているではないかとふたたび二階へ上がってみるのだが、いない。

もう一度一階に下りてみたら、次女と二人で風呂場にいた。電気を消してまっくらになった風呂場で二人とも湯に浸かり、窓を開けて外を見ている。雨は窓からざんざん降り込んでくるのだが、そんなことでは動じない。

「何してるの」
「雷の鑑賞」
「お前なあ」
「ずっと向こうまで明るくなってすごいのよ」

わが家の裏は、宮崎市内でも珍しくなった小さな田んぼがあり、けっこう向こうまで見渡せるのだが、そこを雷が照らし、さたー!、さたー!と大音響が炸裂する。長岡鉄男もびっくりの、猛烈なハイスピードサウンド。しかもサラウンドである。映像はフルスペックハイビジョンもはだしで逃げ出すスケールと鮮度であるからして、これはたしかにすごい見ものなのであった。

今日は正午頃、めちゃくちゃな雷雨となり、宮崎空港では滑走路に落雷して穴があき、しばらく閉鎖になっていた由。あんな平らなところに落雷するのだから、うっかり外には出られないよなあ。とかいいつつ、今日も海洋小説を読んでいるのだった。

2008年7月22日

フェザー級という奇跡

大昔。バーチェス頁岩ができた頃というくらい昔、おれは高校生だった。

ある日、まったく見向きもしてくれない女の子にほれたおれは、その子が同級生のベースマンとつきあっているという噂を聞いた。まあ想定内のことではあったにしても、少しくじけたことはくじけた。

それが下地になったのか、どうだったのか。ある日おれは、ボクシングを始めた。すでに文化系の放送部員だったおれは、掛け持ちで体育系の中でも相当ハードな部類に属するボクシング部にすんなり入れてもらえるものでもなく、とりあえず課内クラブとしてボクシングクラブに入り、そこで出会ったボクシング部員と、なあなあの関係になりつつ、出入りを許してもらうという形でボクシングを始めた。

別に強くなりたいとか、憎いあんちしょうの顔が浮かぶとか、そういう動機があったわけではない。おそらく、今にして思うに、それまでの自分ではない、まったくちがう自分になりたかったのだろうと思う。どう考えても、おれがボクシングを始めるというのは、たとえばジミ・ヘンドリックスが吉本に入って関西弁で漫才をやるというのと同じくらい、変で、おかしなことだった。

しかも、おれは当時、身長177cmで体重76kgというデブであった。おまけに、詩なんか書いていた。詩なんか書いたりする、デブの高校生がいきなりボクシングを始めるというのは、一般的にいうと発狂であろう。それについて異を唱えることはしない。

もっとも、少しアタマがどうかしないことには、こんなことはやらないという意見もある。ボクシングは一生楽しめるスポーツではないし、段位をもらって履歴書に書けるものでもない。ぎりぎりまで減量をして、わざわざ他人に殴られに行くのだから、あまり健康に良いというものでもなさそうだ。

で、おれは、もし自分がリングに上がるようなことになった時に、いったい何級であるのか見当もつかなかった。そこでとりあえず、そのへんにいるボクサーを片端からつかまえて、こいつらがどのくらい強いのか試してみることにした。

高校生では事実上、最重量級といってもいい60kg以下のライト級では(その上にウェルターとかミドルとかあるけれど選手は極端に少ない)、まったく歯がたたなかった。お話にも何にもならない。

鍛え上げた60kgのボクサーのパンチというのは、たとえそれが高校生のアマチュアであったにしても、左のアゴから入ってきたパンチが脳髄をいわして、おれをしばらくの間花畑へ連れていき、そのまま右のアゴへ抜けていくというような衝撃があった。練習用の16オンスの巨大なグローブであったにもかかわらず、一週間くらい口を開くことができなくなって、リンゴのすりおろしたのばかり食べていたことがある。

一般に60kgといえば小柄なヒトという感じではあるけれど、ほぼ全員、10kg程度の減量をするから、ライト級でも、たいていもともとの体重は70kgくらいある。筋肉のしっかりした、人並み以上の闘争心も備えた70kgである。そんなのが、それまでの喧嘩などでは見たこともないスピードで動き、ぐわしぃぃぃぃ、とパンチをかましてくるのだから、詩人のおれはたまったものではなかった。

そのライト級で、後に九州大会で優勝することになる男がいた。口数が少なく、人の冗談にひっそりと笑ったりするくらいの非常におとなしい男で、人間的にもいいやつだった。とてもグローブをつけて他人と殴り合うようには見えないのだけど、いざとなると途方もなく強かった。

そいつと夏の補習授業で、たまたま同じクラスになった。やつは一番前の席の、教壇の正面に座って熱心にノートをとっており、学業でもいい加減だったおれは、後の方の席で熱湯に浸かったウナギのようにのびていた。

ある瞬間。

授業をしていた社会科のぼっちゃん刈りの先生が、教卓にある花瓶に手を引っかけて、花瓶が床に向かって落ちていくのをおれは見た。おれ以外は全員下を向いてノートをとっていたので、たぶん目撃者はおれだけだ。ライト級も、下を向いてノートをとっていた。

ああ、落ちるなあ、割れるなあ、と思っていた。するとそいつが、右手でノートをとる態勢のままで左手をゆっくりと伸ばし(おれにはそれがスローモーションのように見えた)、落下しつつある花瓶をつかまえて、そっと教卓に戻した。そのシーンもまた、おれ以外、見ていなかったと思う。

ぞぞ気が走るというのは、あのことだ。こんなやつと、おれはスパーリングをしていたのだ。

とても、こんなやつと同じ階級で生きてはいけないと考えたおれは、そのひとつ下のフェザー級になることにした。maxで57kg。19kgの減量が必要だった。

朝起きると、お袋がタッパーウエアに野菜を切ったのを詰めておいてくれていた。そいつを野菜炒めにして食べ、登校する。それからジャージに着替え、黄色いビニールのヤッケを着込んで、口にマスクを着けて40分走り、ウエイトをやる。

昼食は、ヤクルト・ジョアが一本。放課後になると、またもやマスクを着けて走った後、一人でバッグ打ちやシャドーなどの基本練習を始めた。やがて、正規のボクシング部の練習にまぎれこませてもらったりした。彼らの通常メニューはバッグ打ちを2R、ミット打ちを2R、シャドーボクシングを2R、互いにテーマと約束事を持って練習相手と対峙するマスボクシングを2R。試合が近づくとスパーリングが加わり、ぶっ続けで15Rになったりした。インターバルの1分は、柔道着を頭からかぶり、さらに体育館シートにもぐりこんで可能なかぎり息を止める。汗が噴き出て目が回る。

最初、サンドバッグを3分打ち続けることができなかった。はじめの1分くらいはちゃんとしたフォームで打てるのだが、やがて手が上がらなくなってジャブが下から出てくるようになる。これは猫パンチよりも見苦しい。

ある時、高校を出たら四国の芦原道場に行く、という極真空手男と出会った。体重は50kgそこそこだったけど、ケモノのように敏捷で目にも体にも気迫がこもっており、グローブをつけたスパーリングで、あっという間に懐に入られ、おれは何もできなかった。当たり前だ。それでも、じゃれ合いのようなものであるにしても、こんな男の前に立つことができるようになったことがうれしかった。

ある時は、吹奏楽部でトロンボーンかなんか吹いていた、髪なぞきれいに刈って七三に分けていたりなどする、ちょっと優等生風の男とスパーリングをした。こいつはボクシング部の顧問の先生が「殺人パンチ」と呼ぶほど危険なパンチを持っており、ワンツーしか知らないのだが、それが当ると、レンガか何かで殴られるように効いた。一度、彼が2年生部員とやった時、最初のラウンドで前のめりに倒してしまい、洒落にならなかった。素人でも、生まれつき強いやつがいる。

また、ある時は、おれにタメと呼ばれる男から果たし状が届いた。もともとボクシング部で一番軽いモスキート級でならしていたのだが、バイク事故で頭を強打してやめなくてはならなくなった。「○時、リングで待つ タメ」と書いてあった。みんな、止めた。その男の方をだ。おれも本気でやるつもりはなかった。タメもまた、特におれにウラミがあったわけではないはずで、半分、素人のおれを面白がっていたのだろうと思う。

タメは長いブランクはあったものの、さすがに速かった。ただし、身長とリーチがちがいすぎた。遠い間合いから素早く踏み込んできて、無駄のないフォームで打ち込んでくるのだが、連打には至らない。おれはタメのパンチをかわすだけで時間が過ぎていった。リングを降りる時、タメはありがとうといった。

立場としては滑稽なものだったかもしれない。正規の部員ではなく、ちゃんとした試合に出られるあてもないのに、ジャージを着て練習と減量を続けた。それでも部員たちは、特におれを馬鹿にするでもなく、時にパンチの打ち方や足の運び方、打たれた時に効いた顔をしてはいけない、などといったことを教えてくれた。強いやつほど、いいやつだったと思う。

そうやって、おれは半年で20kg減らしてめでたくフェザー級になった。フェザー級になったところで、正規の部員ではないので何がどうということもないのだが、やはりその階級で九州チャンピオンになった同級生が、時々、スパーリングをしてくれるようになった。

この男は高校生には珍しい典型的なファイターで、首が太く、広背筋の発達した頑丈な上体を振って必殺のフックを送り込んでくるというタイプだった。何が嫌だといって、いいタイミングで当ったおれのパンチが、この太首男にはまったく効かない。エマーソン・レイク・アンド・パーマーのアルマジロ戦車のごとくずんずん、ずんずん、前に出てきて、やがて破壊的な一撃がおれのコメカミやアゴをとらえるのだった。

ある日、彼が、おれのことを「速い」とほめてくれたことが伝わってきた。ディフェンスの動きのことを言っていたらしい。パンチ力に欠けるおれは、ミゲール・カントをお手本にしていた。ほとんど右を打たず、タイミングのいい左と神業のようなディフェンスで、どんな強打者を相手にしてもきれいな顔のままでリングを降りてくるメキシコ人のWBCフライ級王者。おれに栄光があったとすれば、その日だった。

その頃、歩いていると、急に視野が狭くなって倒れそうになったりした。糖分が極端に不足すると、網膜を動かすエネルギーが足りなくなってブラックアウトという現象が起きる。そんな知識もありはしかった。

その頃、モノゴトの始まりだった76kgをさらに超えたおれは、今、何級に自分を落ち着かせるべきか迷っているのだった。

2008年7月21日

自分を赦すということ

あー、なんか青いタイトルで申し訳ないなあ。
と、浅川浩二風に始まるわけですが。

こないだ、目を閉じて仰臥の姿勢で気功を受けていたら、何度か「あー、そーか」「あー、そーか」とワタシはあーそーか星人と化してつぶやいていたそうであります。頭の中はサトリの嵐だったのでしょう。

せっかくのサトリだったのに、それがなんだったのか、ほとんど忘れてしまったのだけど、ひとつ覚えているのは「自分をゆるすというのは、人をゆるすことよりもずっとむずかしい」ということ。どうして覚えているかというと、そうつぶやいたところ、気功の先生が「そう。容赦ないものね」と答えてくれたわけです。

まさしく、人は自分に対して容赦ないところがある。ワタシのような甘い人間でもそうなのだから、世の多くの皆さんはさらにそうなんではないかと思うわけです。「容赦ない」という、ただならぬ言葉を返してくれた気功の先生もきっとそうなんでしょう。

克己という言葉があります。敵に勝ち、己に克つなんてこともいいます。基本的にオノレというものには勝たなくてはならない。それ以外に道はなく、オノレに負けたものにはきっと想像もつかないような悲惨が待っているのだと、われわれ、信じ込んできたように思うわけですが。

でも、たとえば克己という言葉の成り立ちを考えてみると、まずオノレというものは弱いものであるという前提がある。オノレに克てないで敵に勝てるかという、昔スポ根ドラマなんかでよく聞いた理屈は、とりあえず敵よりもオノレの方が弱いという認識がなくては出てこない。そのオノレに克つオノレというのは一体なんだという議論はおくとして、ニホンでは古くからオノレ=弱いものという、ほぼ誰も疑わない共通認識があったように思うわけです。

ワタシもそれを疑っておりません。やはり、オノレは弱い。特におれのオノレは非常に弱い。

それならば、まずその弱さを受け容れてしまわんことには、強がりばかり言ってても仕方がないではないんではなかろうか。大体、他人を許せるのは、ほんとはしょせん他人のことであるからで、まずもっとも許し難い行いばかりを為す自分を受け止めることができなくて、いかに他人を受け止めることができようかと。目を閉じて仰臥の姿勢で気功師の老婦人に身をまかせながら、ワタシは考えていたのでした。

外柔内剛。これは遠い理想ではなく、内実を問わなければ、案外、多くの人ができている。むしろ内に向かう刃の、容赦ない鋭さの方が問題のような気がするし、それが外に向かう柔の部分を優しさという名の無関心のようなものに変質させているような気もするわけで、この際、みんなで自分を赦しまくってですな、ぱーっといきませんか、ぱーっと。と、「社長シリーズ」の三木のり平となって、ワタシは町へ繰り出していくわけであります。

2008年7月18日

宮崎の焼酎のこと

仕事で記事を書くために、あちこちの蔵元さんにお世話になったりもしているので、自分の好みを書くというのは仁義に反するのだけど、友だちが焼酎を好きだというので案内のために書いておこうと思う。もちろんすべての銘柄を飲んだわけではないので、個人的な感想の範囲。

まず宮崎焼酎の特徴としては、アルコール度数が20度であるということがある。おそらく、日本の焼酎で20度というのは宮崎だけだ。これは戦後、酒税法が改正された時、20度だと税金が安くて価格を低く設定できたという事情があるらしい。宮崎は密造酒が多く(それが文化なので、法律の方が非文化的なのだが)、できるだけ価格を抑えることで正規品へのシフトを促す狙いもあったのかもしれない。

ただし、これは田崎真也さんから聞いた話だけど、なべてアルコールというのは15~17度前後がもっともおいしく感じるものであるらしい。ワインも日本酒も、それに近い。25度の焼酎だって6:4のお湯割りにすれば、それに近づく。宮崎焼酎は、だからロックがおいしいし、ストレートでもおいしい。

そういうわけで、ここ数年、お気に入りの宮崎焼酎について。ただし1升3000円を超すものはのぞく。私見だが、毎日飲めないものは焼酎ではない。


【御幣】(姫泉酒造/日之影町)

芋のしっかりとした香りがありながら、水のような飲み口の軽さ。通常、フーゼル油などの不純物をのぞくためにマイクロフィルターをかけるのだけれど、ここは表面に浮いてきたものを人がひしゃくですくう。フィルターをかけずに、この軽さを出すというのは驚異的なことだと思う。神楽の夜に、お煮しめを食べながら飲むにはこれしかないよなあという、山の澄明な冷気のような味がする。社長含めて三人というミニマムな蔵。日之影町の五ヶ瀬川沿いの小さな店。


【無月・夢】(櫻の郷醸造/北郷町)

焼酎というのは、本来作ったはなから売ってしまうものなのだが、これは陶製の甕で貯蔵してから出荷する。味わいは重厚なのに飲み口は軽いという不思議。度数は25度あるけれど、どうかすると平凡な20度よりも軽く感じられる。ぼくの宮崎焼酎ベスト3に、たぶん入ってくる逸品。


【時代蔵かんろ】(京屋酒造/日南市)

京屋酒造は、「甕雫」のヒットで名前が知られるようになったけれど、製法は大正時代からあまり変わっていないように思える。まず、おばちゃんたちが芋の皮をむくのだが、きれいにむいてしまえばいいというものではなくて、どの部分の皮をどのくらい残すのがベスト、のようなアナログなノウハウが濃く蓄積されている。そして、宮崎駿夫のアニメに出てきそうな煉瓦造りの、非常に扱いのむずかしそうな蒸留機で蒸留し、それを土に埋めた甕で熟成する。このとろりとしたこの味わいはちょっと比類ない。


【明月】(明月酒造/えびの市)

本格焼酎というのは、これ。といえる。あくまで芋の風味が濃く、まるで時代に迎合する気配がない。これを飲みつけてしまえば、ほかに目移りすることはないのではないか。こんなはっきりとした蔵を持つ地元の人は、それだけで幸せだと思う。昔、冠婚葬祭、いずれの時にも南九州の座敷に漂っていた香りは、これではないかと思われる。ハレの料理としての煮しめも、これはどうしても地鶏でダシをとったものでなくてはならない。宮崎を代表する硬派。


【西の都】(西の都酒造/西都市)

2008年2月にオープンしたばかりの、ぴかぴかの蔵。いわゆる観光蔵元なのだけど、施設が大がかりなわりには銘柄は西の都の白麹・黒麹の二種しかなく、そのレベルはあっと驚くほど高い。特に白麹は、甘く華やかな香りがあって、味わいが深く、どこに出しても日本代表の看板を背負えるほどのもの。焼酎ブームで、どの蔵も原料の確保に大変なのだが、ここは地元西都産の黄金千貫を、同じく地元の伏流水で仕上げる。


【黒霧島】(霧島酒造/都城市)

どこでも買えて、いつでもおいしい。とにかくこの銘柄のロックが、焼酎のイメージを変えてしまったと思う。レベルは相当に高いのだけれど、大手の強みで決してプレミアになったりしない。はっきりいうけど、芋焼酎にプレミアだとかいって騒ぐのは馬鹿だと思う。あるいは商売として、焼酎のためにならない。


【呂山】(雲海酒造/綾町)

そば焼酎で全国に知られた大企業の蔵元が、わざわざ手作り・少量生産のアナログな蔵を開いた。内部的には技術の継承のためだという。そこでできる黒麹・甕仕込みのそば焼酎。通常は減圧蒸留するところを、味が荒々しくなる昔ながらの常圧で蒸留して、その分、長く熟成させる。普通は、仕込みから1年で出荷できるものが、この方法では2年かかってしまう。それだけの手間をかけるのに見合う仕上がり。最初のインパクトは芋焼酎かと思うほど強烈だけど、味わいは非常に甘い。陶然となるおいしさ。


ほかにもいろいろある。総じていえば、宮崎の焼酎は地元で飲まれることを前提にしているので、あまり質の変化はなく、どれもおいしいと思う。

それにもまして。

これも田崎真也さんに、いろいろとうがった質問をした時に言われた言葉だけれど、彼は「そんなことよりもさあ」と、地に戻っていった。

「誰と飲むかが大事なんじゃないの」

そうだと思う。

2008年7月17日

気功に行く

朝から予約してあった気功へ行く。気功といっても自分でやるのではなくて、肩こりとか疲労とかもろもろの事柄を癒すために、気功師にやってもらうやつで、こちらは受け身である。

2年ほど前に、首をひどく寝違えて3週間ほど苦しんだことがあり、整骨院その他で徐々に快方には向かっていたものの、鏡に映る自分の姿はひどいものであった。痛みのために両腕が縮こまり、額にはシワが寄って、なんだか体も顔も雷を受けた木みたいにねじれていた。

そこで1時間、いろいろとやってもらったのだけれど、何しろ気功というのはマッサージとかカイロプラクティックとちがって、何かをやってもらっている実感というものがあまりない。痛くもかゆくもないので、どのようなリアクションをとっていいのかもわからない。

ぼくは痛みに弱いらしくて、というか、痛みに対する表現力が豊かであるらしくて、近所の歯医者ではちょっと評判である。何かというと、「おわ」とか「うお」とか「うがががが」とかいって治療台で暴れる。これは父譲りなので血というものであろう。

で、その重度寝違え事件の時、気功がすんで鏡を見たら、頬に紅がさし、額は開き、若き眉となって生気あふれていた。縮こまっていた腕はすんなりと下り、胸も張れている。

『ロード・オブ・ザ・リングス』で、蛇の舌グリマにそそのかされて衰弱していたローハンの王セオデンが、アラゴルンらによって救われて、みるみる顔に生気がよみがえるというシーンがあったでしょう。まさにあれが、わが身に起こったわけです。

気功についての詳細はわからないけれど、ぼくは実利的に役立つならなんでもよろしというニンゲンであるので、「これは効く」とインプットされた。やがて、その親子でやっている気功師さんと仲良くなり、常連の皆さんと綾にお泊まり会なんてものにすら参加したりした。

そうなると、もうなんでもありである。

「今日はどうされました」
「原稿を書きたいんだけど進みません」
「わかりました」

なんてやりとりが可能になる。

そこで原稿を書けるようになるための、というか、あちこちリセットするための施術をやってくれる。今日は、左脳につながるところの停滞と、目のひどい疲労をとるというのが主なテーマだったらしい。帰ってきたらいきなり眠くなり、4時間ほど眠っていた。起きたら鼻はすーすー通るし、目は楽だし、なんだか頭がクリアである。

もう一軒、ひいきにしているカイロプラクティック屋さんは15年もつきあっているので、

「今日はどうされました」
「過労。原稿が書けない。女の子にもてない。です」
「わかりました」

なんてことで、施術を引き受けてくれる。ここはとにかく、終わったら猛烈にお腹がすくので、何かにヨイのであろう。

いくら長年つきあっている主治医でも、医者にこんなリクエストをしたらぶっとばされる。東洋医学ばんざい。なのであった。

2008年7月16日

中野重治

真夜中になって
風も落ちたし
みんな寝てしまうし
何時頃やら見当もつかぬのに
杉の木あたりにいて
じいっというて鳴く
じつに馬鹿だ


中学生の頃、いずれはこんな詩を書けるんだろうなと思っていたわけです。

後年、久留米の丸山豊の最後の弟子(自称)になり、「君は、詩を書きなさい」とありがたくも言われ続けながら、ついにひとつも詩を書かず、結婚の媒酌まで頼んでおきながら、それでも詩を書かず、なおかつ師はあきらめずに、死ぬ年まで「詩は書いていますか」と呼びかけてくださった。

丸山豊が死んだ時、20代のすべてのエネルギーを注いだつもりの久留米が、ただのほこりっぽい田舎町に見えて仕方なかったな。丸山先生のことは、いずれきちんと書くとして。

中野重治の「真夜中の蝉」であります。

2008年7月15日

映画>アタゴオルは猫の森

『アタゴオルは猫の森』(西久保瑞穂監督/2006)。

三週間ぶりに映画を観た。その間、夜になると毎日のように気になっていたのだけど、つい飲んでしまったりとか、気持ちの準備ができなかったりとかで、なかなか態勢に入れなかった。大体、ふと気がつくと午前1時半で、それから寝ようとするのが3時、結局寝るのが4時半なんていうパターンが続いていたので、映画どころではなかった。

映画を観るには正しい生活態度と、夕方にその日のことを終わらせて気持ちの区切りをつけられる自律性と、サケの誘惑に負けない強い心が必要なのである。だもので、今日はちょっと前進。早くまともな生活に戻ろう。

ますむらひろしの「アタゴオル」を素材にした、モーションキャプチャーによる3DCG。秩序の権化にして植物の女王であるピレアに、非秩序の権化であるヒデヨシが戦いを挑むというお話。

あの漫画の映画化という風に考えずに手法的に思いきった転換をしているので、割り切って楽しむことができた。それは細かいことをいえば、テンプラがそこらの兄ちゃんみたいだとか、ヒデ丸に台詞がないとか、独特の間が感じられないとか、いろいろあるわけだけれど、漫画はあくまで原作。この映画はかつての読者と微妙な距離感を保ちながら、よくこしらえていると思う。

そもそも、かれこれ30年という歴史はあるものの、爆発的な大ヒットというのはついに一度もなかったアタゴオルが、この時点で映画になるというのが、ひとつの小さな奇跡。

ところで、「アタゴオルはB型の王国なのではないか」という考察があった。
http://homepage2.nifty.com/a-memo/jihanki/m-at-bty.html

そういわれると確かにそういう気もしてくるのだが、こんなにB型ばかり集まってしまって大丈夫なのかしらん。

2008年7月14日

伊佐美のこと

鹿児島の大口市に伊佐美という焼酎がある。第一次焼酎ブームが起こった昭和50年前後のどこかの時点で、これが日本最初の「幻の焼酎」となった。

ことの起こりは、博多である。昭和40年代、高度成長とともに九州の商業集積は北九州から博多へシフトしていって、企業の九州支店もどんどん福岡市へ移ってきた。あるいは、新しく窓口を開いた。

そこへ鹿児島の「白波」がやってきた。この博多と白波の出会いこそが、南九州の地酒だった焼酎が全国区になったきっかけであって、やがて九州支店から東京へ帰っていったサラリーマンたちが、九州時代に飲んだ焼酎が忘れられず、少しずつ関東圏でも焼酎が飲まれるようになったものと思われる。同じ頃、宮崎のそば焼酎「雲海」も、関東で飲まれ始めていた。

そうしてなんとなく、本格焼酎が東京で浸透し始めた頃、伊佐美というたいそううまい焼酎があるらしいという話が広がった。広がった時点でそれは「幻」となる。非常に小さな蔵だったからだ。

今では移転して洒落た建物になっているけれど、伊佐美の蔵元の甲斐商店というのは、数年前まで、焼酎蔵というよりはほんとに小さな田舎の酒屋だった。間口二間ほどの木の枠のはまったガラスの引き戸を、がらがらと開けて入ると土間になっていて、カウンターの奥の棚に申し訳程度に酒が並んでいた。そこにはなぜか「清酒大関」などもあったりした。

その脇に、奥へ通じる通り抜けがあり、焼酎はそこで造っていた。最近、同じような作りの焼酎蔵を見た。日之影町の姫泉酒造というところ。ここも、社長含めて三人という蔵だけれど、御幣というとてつもなくうまい焼酎を造っている。幸い、まだ幻ではない。

大体、小さな蔵で手作りをすると焼酎はうまいものができる。というより、南九州では各町内にひとつか二つは蔵があったもので、飲み手も町内限定だから必然的に規模は小さく、手作りになる。伊佐美もまた、そういうどこにでもある「町内の蔵」であり、それは当然ブームというものにはそぐわないものだった。

「幻」になってからも、甲斐商店の店頭では近隣の取り決めのもとに、地元産の焼酎二本との抱き合わせであれば、定価で買うことができた。一本二千円もしない。この抱き合わせ焼酎の、たとえば伊佐錦であるとか、伊佐大泉であったりとかも、いつでも「幻」になりうるほどの逸品であって、宮崎市からわざわざ大口市まで買い出しに行っても、豊かな気持ちで帰ってくることができた。

そのつもりで、昨年、甲斐商店まで出かけてみたのだけれど、「申し訳ないけれど店頭販売はしていない」ということだった。少しく落胆していたら、店員さんは「ちょっと待ってて」といって奥へ走っていき、「一本ありましたよ」と言って持ってきてくれた。予約、予約で造るはなから出てしまい、ほんとうに在庫がない様子だったのだけれど、そのまま帰すに忍びなかったのだろうと思う。

こういう「小さな店」らしさが残っているかぎり、伊佐美は大丈夫なんだろうと思う。なんだかあたたかな気持ちになり、その伊佐美は天草オフに持ち込んで仲間と飲んだ。釣れたての羊角湾のミズイカが、いい肴になってくれたのだった。

2008年7月10日

remiちゃんのこと

ある秋の日に、

「これ書いたの、誰ですか」

といって、見知らぬ女の子が部室のドアの向こうに立っていた。細身の黒いパンツに、赤いダウンのジャケット。おれは大学生で、一応文芸系ではあるけれど文芸というよりはお酒を飲んだりみんなで山や海に出かけたりする方が楽しいといったような、つまり詩というよりは、ポエムといった方が似合うような、キビシク議論したりするよりは、ギターを弾いて歌でも歌っていた方が幸せであるというような、そういう軟派なサークルに身を置いていた。

「これ」というのは、みんなで青いガリ版用紙を鉄筆でかりかりと刻んで作った40ページくらいの部誌に掲載していた「電信柱の定義」という文章だった。原稿がないので再現できないのだが、要するに電信柱を定義したものだ。

あるひとつのモノゴトについて、一人の人間がそれを定義しようとした場合、そこにはいくらでも主観をまぎれこませることができる。あるいは、主観を排除することはできない。となると、ひとつの約束としてそこにある、言葉とリンクしているはずの存在の意味と価値というものは、どんどん輪郭が薄れていって、やがて解体に至るのではないか、といったようなことを示唆しつつ、電信柱に関する認識論的な個と普遍の関係を鋭くもえぐり、さらに笑いもとりたいという、まあ当時、ちょっと流行りかけていた記号論の文学的展開をなぞったパロディであった。

そういう着眼とココロザシがあったのだけれど、結局、最初に電信柱を定義したところで、ああ、なるほどと自分で納得してしまい、そのシリーズの続きは書かなかった。

小説は頭脳がないと書けないけれど、詩は刹那的な瞬発力があればバカでも書ける。ただし、根気がないとまとまった仕事にはならない。おれは、タイプとしては根気のないバカであった。

「あ、ぼくですけど」

そういって、カップラーメンの食べ残しやら山盛りの灰皿やら、書き散らした原稿用紙やらが、わらわらと積もっているテーブルから立ち上がろうとしたおれの足もとは、ちょっとよろめいていた。小柄で細い肩。大きくてきれいな瞳。でも、とても強い瞳。それまで会ったどんな女の子にも似ていなかった。

鼻先がトナカイのように赤く酒焼けしたブルースボーカル、マル経くずれの理論派、とりあえず軟派しか頭にないやつ、全然詩を書かない自称詩人、創作よりも議論の刃を磨くのに懸命だったやつ、酒屋のぼんぼん、競輪狂い、いろいろいたけれど、みな瞬間、無言でどよめいた。あまりにもこの場に不似合いな、きりりとした存在感の女の子。


「あのさあ」と、いつもの調子でサワダが言ったことをおれは思い出していた。

「remi って女がいるわけよ。なんつーか、とんでもない女でさ。写真科に通ってるんだけど、ものすごい詩を書いてさ。こないだインドに行って帰ってきたら、頭、坊主になっててさ。なんか裸足で学内、ぺたぺた歩いてたっていうぜ」

サワダは、そいつが好きなんだと言った。好きなんだけど、好きとかそういう対象になるような女ではないから、お前会ってみたらと言った。

「そいつもバケモンだけど、お前もちょっとバケモンみたいなところがあるから、気が合うかもしれん」
「バケモンは勘弁してもらおうか」
「可愛いぞ。パリの女の子みたいに」
「お前なあ」
「ほんとだってば」

おれは少し心が動いた。

「誰に似てる」
「まあ、ナスターシャ・キンスキーだな」

実際のところ、部室に入ってきたremiちゃんはナスターシャ・キンスキーよりも可愛かった。男所帯で、日がな詩が物語が合コンがといっているさなかに、ちがう大学に通っているナスターシャ・キンスキーよりも小柄で可愛くてきりりとした女の子が入ってきたら、その場の男たちはどうなるか。

「固まる」あるいは「引く」というのが正解である。

人には許容範囲というものがある。まったく想定できていない状況で、あり得ないことが起こってしまうと、「いやいや、ようこそ。何のご用でしょうか。え、『電信柱の定義』、それはこいつが書いたんです。面白い文章ですよね。まあ、おかけください。ところでクラブとか入ってます?よければ合コンしません?」なんてことは言えないものなのである。

ただ、みな無言でどよめき、一斉におれの方を見た。それで「あ、ぼくですけど」と立ち上がったおれの足もとが少しよろめいていたのは、そこに立っているのが噂のremi ちゃんであることの確信と、似てるという話だったN.キンスキーよりも、ずっとそいつが可愛かったからなのだった。

それから、何がどういう成り行きになったのか、よく覚えていない。間違いなく仕込みはサワダがやったのだ。やつがremiちゃんに、「変なやつがいるけど会ってみる?ちなみにこれが、そいつが書いたもんだけど」とかいって、ガリ版を渡したのだ。

それがしょぼかったら、もしかするとおれは今、こうしていないかもしれない。その日から始まったことは、今、おれの基礎になっている。

とにかくその日、おれは彼女の家に行った。どうやって行ったのか。庭に小川が流れているような大きな家。

部屋に二人でいた。「こういうの、好きでしょう」とマル・ウォルドロンのALL ALONEをかけてくれた。聴いたことはなかったけれど、たしかに好きなJAZZで、オーディオ装置が置いてある部屋の奥の少し薄暗いところから流れてくるそのピアノは、なんだかその時の空気によく似合っていた。

「なんで好きだとわかる」
「私が好きだから」

部屋には石膏の胸像があって、宮澤賢治の『春と修羅』の詩が、マジックで書かれていた。「わたくしといふ現象は...」と、トルソが宣言しているようでおかしかった。そして、白熱灯に照らされたテーブルの上にのっていた50mmレンズをつけたニコン FMの黒くてかちりとした小さな筐体もまた、持ち主がカメラに化けたみたいによく似合っていた。

写真の話はしなかったし、詩の話もしなかった。かわりに飼っていたハムスターだか、なんとかネズミだかの話を彼女がした。

「一度死んじゃって冷たくなってたんだけどね。数時間後だったけど、ちょっと動いたっていうんで、心臓マッサージしてやったら、よみがえったのよ。急に二本足で立ち上がってさ。ぎょえー、っていって生き返ったの。すごいよねえ」

いきなりそういう話をするお前の方が、よほどすごい。

夜中に女の子の部屋に二人でいるわけだが、恋愛感情もへったくれもなかった。何しろ数時間前に初めて会ったのだ。すげえやつがいるなあという、ただそれだけの思いに圧倒されていた。

たいていの映画なら、その夜にナニゴトかが始まるものである。たしかに始まったのだが、それはそのよーなものではなかった。

「会わせたい人がいる。さっき電話して松橋から来てもらったの」といって、おれの前に現れたのは、浅川浩二というカメラマンかつミュージシャンだった。こいつとの出会いは、ほんとに素晴らしかった。おれは今、非常にリキんでいうのだが、5人の女との出会いと引き換えてでも、こいつと出会った方がいい。

ふだんremiちゃんが寝ているベッドで、初対面のおれと浅川は一緒に寝て、やがて男二人で寝物語を始め、朝までげらげら笑い転げていた。ベッドから這いだした時には、二人ともへとへとになっていた。こいつのギャグは、いちいちおれのつぼにはまった。

どうも彼女に見切られている。まともに術中にはまってしまった感じだった。

浅川には、音楽にも写真にもまれにみる才能があった。生まれながらに人を楽しませる能力があり、それはものすごく高度な技術とセンスに裏打ちされていた。こういう男を前にすると、「感性」などという、とりたててできることがないおれのような人間が唯一よりどころにするしかないものが、あっという間に色あせてしまう。そしてそれは、とても気持ちのよい体験だった。結局、おれには何もないのだなあと、しみじみと掌を見つめてみたりした。

そのおれの右の掌には、真ん中にバッテンマークがある。神秘十字線というらしいのだが、これを持つ人は占い師に向いているらしい。いずれやることが見つからなかったら、占い師にでもなるかと思っていた。要するにremiちゃんや浅川のようには、おれはやることが見つけられないでいた。

天分のかたまりである浅川は、あまり天分に恵まれないおれを気に入ったらしく、何度か松橋から遊びにきてくれた。ある時、ちょうどおれは部屋でバルサを削っていた。

「おう、何してんの。木なんか削って。悪いことか」
「グライダー作ってんの」
「小さいじゃん」
「ハンドランチグライダーって知らないか」
「聞いたことがある」
「子供の科学。誠文堂新光社。山森喜進。」
「知ってるぜ!」
「そうだろうな。お前みたいなやつは大体知ってる」
「飛ぶのか」
「うまく上昇気流に乗ればな。旋回しながら上に上がっていくんだ」

完成した翼幅25センチくらいのグライダーを持って、おれたちは浮羽の田んぼに飛ばしに行った。いくらなんでも大の男が二人でやることではないような気がするのだが、その日、おれたちは日がな田んぼを転げまわり、ぎゃはははと笑いながら、小さなグライダーを飛ばした。


remiちゃんの噂は、その後もサワダから聞いていた。ある夜、中洲で「んにゃろ」といって大きなベンツを蹴飛ばしたら、中にヤクザが乗っていて、顔が変型するほど殴られたとか。

二日市で飲んでいて、駅前に自転車があったのでそれを盗んで帰っていたら、坂道でこけて前歯を二本飛ばし、口の中が血だらけになりながら、途中でちゃんぽん屋に寄って焼酎を二合飲み、ちゃんぽんを食べて帰ったとか。

彼女の話をする時、サワダはとてもうれしそうなのだが、そんなに好きならなぜ本気でほれてしまわないのだと、おれはちょっと不思議だった。手に負えないのがわかっているというのだが、そんなことがあるものか。愛は国境を越えるというではないか。

「それはなあ。お前にはそうだろうけどさ。おれはもっと普通の子がいいのさ」

そういいながら、サワダはおれとremiちゃんを引き合わせたことで、何が生まれるのか楽しみにしていた様子ではあった。買いかぶりというものだ。

大体、サワダとremiちゃんと出会いというのは、設定としてはそこらのB級ドラマよりもずっと劇的である。というか、ドラマというものがない。

高校を卒業して博多のライブハウスで働きはじめたremiちゃんは、その頃、職場に近い天神に住んでいた。同じように夜働いている友だちと、「夜の友」という二十人にも及ぶ仲間を結成したremiちゃんは、仕事が終わってもアパートになかなか帰らず、毎夜のように朝まで飲んでいた。

それにも飽きて、屋台で一人で飲み、その屋台の撤収まで手伝ったりしながら、だんだんと自分のありようとか、ありかとかいうものを考えるようになっていた。そして、夏が過ぎて夕暮れなどは少し肌寒くもなってきた頃。

「なーんかライブハウスも、朝まで飲むのも、路上で詩集を売るのも、大体わかってきたけん、次に行かんとね。ネクスト、やね」

と考えたremiちゃんは、大学でも行くかと近所にあったES学館という予備校にモグることにした。モグるというのは、つまり正規の生徒としてではなくて、教室にまぎれこんで勉強をする。という戦術である。当然、教科書などは持っていないので、そこらの学生のを見せてもらうことになる。

「あのさ。あたし、モグリやけん教科書持っとらんと。明日から見せてくれん」

「ついでに、あたし夜の仕事しよるけん、朝起きられんと。アパートに起こしに来てくれるとうれしかとけど」

その声をかけた相手が、たまたまそこにいたサワダであった。いわばサワダは、縁もゆかりもない状態から、突然強烈にremiちゃんと縁をつなぐことになったのだ。こいつは律儀にも翌日から、remiちゃんのアパートに毎日迎えに行き、ひとつの教科書を二人で使いながら予備校に通った。そしてこれが信じられないのだが、このサワダという男はアパートへに迎えに行く時に、いつもほかの友だちと二人で行ったというのだ。

ありえへん。

と、おれの頭の後でガネーシャが言った。


あれを恋と呼んでいいのなら、おれはそれからremiちゃんに恋をした。remiちゃんは時々、おれの町に遊びに来るようになっていた。

詩や写真がきっかけではあったにしても、作品はほとんど見せてもらった記憶がない。もう見る必要もない気がしていた。おれたちをつないでくれたサワダと三人で会うこともあまりなかった。remiちゃんは、まずサワダの下宿に遊びに行き、それからおれのアパートに来た。久留米市千本杉。トラックや車がひっきりなしに通る国道322号沿いのビルの2階がおれの根城だった。正面が消防署だったので、どんなに深酒をしても正午になるとサイレンでたたき起こされた。

ある夜。こたつの天板にノートを広げて、いつものようにナニゴトかを書いていたおれのところへ、白波の一升瓶を抱えたremiちゃんが「飲もうぜ!」といって入ってきた。「なんだよ」といいながら、おれはうれしかった。男でも、なかなかこんなやつはいない。

彼女が五合くらい飲み、おれが三合くらい飲み、二合くらいあまったところで朝になった。それから二人で朝妻の通りを歩いて学食へ行き、熱い味噌汁を飲んで別れた。いつも、ふやふやになっている麩が、早朝なものだからしっかりしていて、味噌汁はあざやかに香った。あざやかに香るしっかり麩の味噌汁で、しゃんとなったおれたちは、じゃあねといって別れた。

会いたくなると、手紙を書いた。そうすると何日かして、彼女がやってきた。会ったところで、恋人のような状況にはならないのだけれど、そういうことはすぐに通り越して、肩を組んで大声でわめきながら通りを歩く同志のような関係に、おれたちはなってしまっていた。

何かというと「つ・ま・ら・ん・や・つ」というremiちゃん。ぎりぎりにとんがっているくせに、そのセーターの下のガラスのように薄い肩。何か不本意なことがあると唇を噛む癖があったらしい、おれの真似。そういう、ひとつひとつが、そのすべてが愛おしくて仕方がなかった。二人でいると、なんだか、弱い動物が寄り添っているみたいな気がした。何がバケモンだ。おれたち、こんなに弱いんじゃないか。

大学も卒業が迫っていたのだけれど、あいかわらずおれは探しものが見つからないでいた。あり得ないようなコネクションから、ある会社への就職を勧められたりもしたけれど、おれはそれを断り、ポケットに手を突っ込んで町を歩きながら、そのポケットの中で拳を握りしめていた。二人とも、この先、生きていくための何かを探していたのだと思う。それは仕事とか会社とかではなく、おそらく今しか見つからない何か。今見つけておかなくては、きっとこの先、よけいに見つかりにくくなる何か。

そしてある日、おれたちの時間は、互いの螺旋がねじ切れるようにして切れた。何が始まって何が終わったのかさえ、おれにはわからなかった。ひとつの約束も交わすこともなく、守ることもできなかった。

浅川とは、その後も何度か会った。
あいつも、remiちゃんには恋をしていたらしい。