山下洋輔+向井滋春
山下洋輔+向井滋春 4.30 宮崎県立芸術劇場演劇ホール
場内が暗転してざわめきが静まると、ステージ上手に1年前と同じ姿で山下洋輔が立っていた。1000人ほどのホールなのだけど、まるで街場のクラブのような身軽さと手際の良さ。照明も最低限。カルテットにトロンボーンの向井滋春を加えた5人は、どんどん楽器について、せえのといって演奏を始める。
後先も顧みずに自分の感覚を信じて書くけれど、最初の5秒かそこら。おかしいくらいにずれていた。音もリズムも合っていない。つまり、こちらが想定していた「ジャズ」というものとズレている。一人でぶっ壊しているのがいる。向井滋春だった。出るかと思えば引き、のるかと思えば反る。ツーといえばニャアだ。
最初の5秒だけそう感じたのは、その後はこちらが合わせたからだ。どうであろうと聴き手は最強である。即座にその場でどんな風にでも聴ける。演り手はそうはいかない。いや、それがやれるからあそこにいるわけか。
そもそも、その5秒間、音色とかリズムとかフレーズとかグルーヴとかいろんなもので、超高速でレースを編むように緻密にずらしていくというのは、どうよと思う。たった5秒の間に、何をやったんだと思う。
冒頭の数秒間の違和感は、虚無感といってもいいようなものだった。なんにもない虚空があって、音がそこから飛んでくる。あるいはそこへ向かって飛んでいく。実体がないことはないけれど、怖い言葉でいえばこの世のものではない。反粒子トロンボーンだ。
だからあわてて、こちらから合わせなくてはならない。そうでないと反粒子ジャズと粒子ジャズが衝突して対消滅を起こし、地球とジャズがなくなってしまうからだ。今夜は最後までこの人を中心に回っていった。
それにしても、トロンボーンなどという不便で不自由な楽器で、フロントマンとしてトランペットやサックスと互していこうというのは、いったいどういう了見なのだろうか。
たとえば、チャーリー・パーカーと同じようには吹けないだろうし、ジョー・パスのように吹いてみれというのもむずかしそうだ。だからといってこの人は、音の艶や色気といったものに逃げるでもなく、円熟に引きこもりもせず、破壊せよとアイラーにも言われず、安直に枯れるのでもなく、一人であの世とこの世を行ったりきたりするような反物理法則的なトロンボーン吹きになってしまった。
たぶん、すべてはぼくの勘違いだろうと思う。そうでなければ怖すぎる。その怖さが中毒になりそうでもっと怖い。そして、彼の立ち姿のなんとも涼やかなこと。ああ、わかったぞ。この人は落語でいえば先代の三笑亭可楽だ。一度はまると抜けられない罠なのだ。
今夜の全体の構成としては、「非常にわかりやすいフリージャズ」。ほとんどの曲で、5人でソロを回すのでお互いに体力も温存され、昔の山下トリオのような、20分後には演奏者も聴衆もへとへとのよれよれ、ということにはならない。もちろん、これでよいのだと思う。もうそんな時代ではない。
政治の季節が終わったように、ジャズも変わり、若者は年をとっていく。橋の下をたくさんの水が流れ、橋の上を多くの人が行き交い、いくつもの恋が過ぎて...。これはまあいいか。
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