『スクール・オブ・ロック』や『ガリバー旅行記』でジャック・ブラックをみるたびに、ああ、この人は存在そのものがジョン・ベルーシのオマージュなのだなあと思っていた。
そのジョン・ベルーシが前作『ブルース・ブラザース』の公開直後に急死してしまい、残ったダン・エイクロイドが一人で18年後に続編を作った。あれだけの作品を、ずいぶん時間が経った後に、もういっぺんやろうというのだから、それだけでたいした勇気だと思うのだけれど、この映画はそんな甘いもんではなかった。
つまり、めっちゃくちゃに面白い。どのくらい面白いかというと、見終わった直後に、「もう一回見て、『ブルースブラザース』をBlu-rayで2回観て、それからもう一回これ観よう」と思ったくらい面白い。翌日の昼過ぎまで、くっくっくっく、と断続的な思い出し笑いを止められないくらい面白かったのだ。
脚本は前作に引き続いてダン・エイクロイド。この作品に対するファンのリスペクトと、まったく同じリスペクトを、彼自身が抱いていることがよくわかって、心がほのぼのとしてきたのだった。
今回のゲストはレイ・チャールス、B.B.キング、ジェームス・ブラウン、エリック・クラプトン、アレサ・フランクリン、グローバー・ワシントン・ジュニアetc.R&Bの歴史とともにあったベースのドナルド・"ダック"・ダンも元気に参加している。
]]>場内が暗転してざわめきが静まると、ステージ上手に1年前と同じ姿で山下洋輔が立っていた。1000人ほどのホールなのだけど、まるで街場のクラブのような身軽さと手際の良さ。照明も最低限。カルテットにトロンボーンの向井滋春を加えた5人は、どんどん楽器について、せえのといって演奏を始める。
後先も顧みずに自分の感覚を信じて書くけれど、最初の5秒かそこら。おかしいくらいにずれていた。音もリズムも合っていない。つまり、こちらが想定していた「ジャズ」というものとズレている。一人でぶっ壊しているのがいる。向井滋春だった。出るかと思えば引き、のるかと思えば反る。ツーといえばニャアだ。
最初の5秒だけそう感じたのは、その後はこちらが合わせたからだ。どうであろうと聴き手は最強である。即座にその場でどんな風にでも聴ける。演り手はそうはいかない。いや、それがやれるからあそこにいるわけか。
そもそも、その5秒間、音色とかリズムとかフレーズとかグルーヴとかいろんなもので、超高速でレースを編むように緻密にずらしていくというのは、どうよと思う。たった5秒の間に、何をやったんだと思う。
冒頭の数秒間の違和感は、虚無感といってもいいようなものだった。なんにもない虚空があって、音がそこから飛んでくる。あるいはそこへ向かって飛んでいく。実体がないことはないけれど、怖い言葉でいえばこの世のものではない。反粒子トロンボーンだ。
だからあわてて、こちらから合わせなくてはならない。そうでないと反粒子ジャズと粒子ジャズが衝突して対消滅を起こし、地球とジャズがなくなってしまうからだ。今夜は最後までこの人を中心に回っていった。
それにしても、トロンボーンなどという不便で不自由な楽器で、フロントマンとしてトランペットやサックスと互していこうというのは、いったいどういう了見なのだろうか。
たとえば、チャーリー・パーカーと同じようには吹けないだろうし、ジョー・パスのように吹いてみれというのもむずかしそうだ。だからといってこの人は、音の艶や色気といったものに逃げるでもなく、円熟に引きこもりもせず、破壊せよとアイラーにも言われず、安直に枯れるのでもなく、一人であの世とこの世を行ったりきたりするような反物理法則的なトロンボーン吹きになってしまった。
たぶん、すべてはぼくの勘違いだろうと思う。そうでなければ怖すぎる。その怖さが中毒になりそうでもっと怖い。そして、彼の立ち姿のなんとも涼やかなこと。ああ、わかったぞ。この人は落語でいえば先代の三笑亭可楽だ。一度はまると抜けられない罠なのだ。
今夜の全体の構成としては、「非常にわかりやすいフリージャズ」。ほとんどの曲で、5人でソロを回すのでお互いに体力も温存され、昔の山下トリオのような、20分後には演奏者も聴衆もへとへとのよれよれ、ということにはならない。もちろん、これでよいのだと思う。もうそんな時代ではない。
政治の季節が終わったように、ジャズも変わり、若者は年をとっていく。橋の下をたくさんの水が流れ、橋の上を多くの人が行き交い、いくつもの恋が過ぎて...。これはまあいいか。
]]>夜、新宿。JICAでコスタリカへ赴任する村瀬敦信君を送る会。タコの介こと樋口正博氏ほか、パソコン通信時代以来の古いネット仲間10数名。NHKの石吾克也氏も呼び込む。2次会、3次会はゴールデン街へ乱入。わけわかんなくなって3時頃に解散。
3月25日
起きたら歌舞伎町のど真ん中のホテル。気になって仲間に電話してみると、2名は駅の階段で夜明かしをした由。強すぎる。西...新宿まで歩いて京王プラザへ。夜は参議院議員の松下新平氏と食事の予定だったが、出身校の宮崎西高が甲子園に進出しており(当人も野球部出身)、雨で試合日程が延びたことで二人飲みも順延。必然的にひとり飯となる。はずだったのだが、明日はコスタリカへ出発する村瀬君とまたもや合流。風が冷たい西新宿の居酒屋で、しんみりと二人できりたんぽ鍋。おとなしく酒は2合まで。
3月26日
朝、新宿のホテルに松下議員が迎えに来てくれて、そのまま議員会館へ。スタッフの皆さんに紹介していただいた後、参議院予算委員会を傍聴。ちょうど元自衛官の佐藤正久氏が田中防衛相を攻めている状況。その後、議員食堂でネットの話などしながらハンバーグ定食。松下議員はきつねそば。浜松町駅まで送ってもらい、モノレールで羽田へ。さきほど帰宅。
この本で学んだのは、「臨界状態(概念的な意味での)においては、平均が意味をなさない」ということ。そして、世の中のたいていのことは、この臨界状態・非平衡な状態にあるということ。
株価の動き、地震の規模、森林火災、生物の大絶滅といったものに、平均的なスケールというものはなくて、その発生回数と規模をグラフにすると、いわゆる「n乗に反比例する」直線グラフとなる。
言えることは大きな山火事は少なくて、小さな山火事は多いということだけで、その中間というものはなく、典型と呼べるものもない。そして、次に起こる事柄の規模についての予測は不可能である。
一方、平均が有効なのは釣り鐘型のグラフだ。真ん中が厚くて、それ以上も以下も薄い。グラフのど真ん中をとってくれば、それが一応の典型という言い方もできるだろう。
さて、ぼくらが「普通は」とか「みんなが」と無意識に口にする時、その事象はどちらのグラフなのだろうか。割り切れないものまで無理やり割り切ることで、安心しようとしていなかったか。それは、誤りであるだけでなく、人や自分を傷つけてはこなかっただろうか。
]]>フォルクローレの中古レコードを3枚入手。左からラウラ・イネス(Luara Ines)、メルセデス・ソーサ、ロス・キジャ・ウアシ。ソーサおばさんは世界的に有名だし、キジャ・ウアシもこの世界では売れっ子だったけど、ラウラ・イネスは日本語、英語圏ともにWEBにもほとんど情報がなかった。
この1977年頃のデビューアルバムが、ほとんど唯一の仕事だったのかもしれない。手元にあるオムニバス版に入っている、amar amando(限りなき愛の歌)が、10代の頃から耳から離れなくて、歌っていた女性がラウラ・イネスという名であったことも数年前に知った。
今回わかったのは、彼女がアルパ弾きでもあったことと、アルゼンチン人なのにパラグアイの音楽に没頭していたこと。そもそも、あの広大な中南米の音楽を、フォルクローレとひとまとめにするのも、乱暴な話ではある。
フォルクローレというのは「何を歌っているのかまったくわからないけれど、心の奥の方でじーんとわかる」という、日本人にとって不思議な音楽なのだ。
]]>引き返すといっても、いきなりUターンすると、 波に横腹を向けることになるので、まず右旋回か左旋回か決めなくてはならない。空間に余裕のある左にターンすることに決めて、少し舵をとり、しばらく右斜めに波を受けながら直進しつつ、なるべく静かな海面を探して、えいやとターン。
ターンしてしまえば追い波なので、揺れは収まるのだけど、今度は速度がむずかしい。速度を出しすぎると前の波に突っ込みそうになるし、遅いと波に追いつかれる。
「港を出たけど波があるので引き返してきた」というだけのことなのに、門川の海とはだいぶちがうなあ。
船をつなぎ、お弁当を食べていたら、組合の事務局の人の船が帰港。親切な人で、ロープの扱いやら、帰港後の水洗いのことやら、いろいろ教えていただく。昨日、知り合った方にボートフックも譲っていただいた。あるぽさんのおかげで、ステッカー貼りも完了。
それにしても、「西のち東の風。晴れ。波高1.5mのち1m」なんて予報を鵜呑みにすると、えらいことである。
日々、学ぶことが多い。
]]>海友丸を青島の港へ回航。写真はドックのある宮崎市の通称タンポリハーバー。
波も天気もおだやかで最高の回航日和だったのだが、港に着いてからは、係留用アンカーの引き揚げと再設置で絵にも描けない重労働となり、回航してくれた宮崎マリーナの若い社長、えらい目にあう。
駆けつけてくれた山形さんと、汚れを落とそうとデッキを洗っていたら、バッテリールームに海水が入り、新品のツインバッテリーがまともに海水を浴びてしまったり。
とりあえずきれいになったので、キャビン内に青島神社のお札をつけ、船体に焼酎をかけると、あざやかな香りがあたりに満ちて、なんだか気分も颯爽としてきた。南九州の冠婚葬祭は、なべて焼酎の香りとともにある。
着岸の練習をしてみたのだけれど、風向きによっては左右の船が密着し、川の流れも時間帯によってけっこう強いので、当座は船首側にボートフックを持つ甲板員が必須の模様。まあ、多少のドタバタを覚悟すれば一人でもなんとかなるか。
また、青島周辺から港の入口付近は、ほぼ必ず追い波になるので(東寄りの風は特に)、波と速度を合わせて走ることにも慣れる必要あり。
本日、新品のアンカーロープ(10mm/200m/8打)到着。明日はあるぽさんと、とりあえず船を出してみる予定。釣りが云々よりも、無事に船を出して無事に帰ってくることが、どれだけ大事でむずかしいことか、毎晩、そんなことを考えている。
]]>初めて見た時も思ったことだけれど、このドラマは時々、ものすごく切れ味のいい鹿児島弁が聞こえてきて、びっくりしたり大笑いしたりする。
「征韓論」(あえてカッコ付)に破れて帰郷する西郷を、大久保が引き止めるかなり緊迫感のあるシーン。これが二人の永遠の別れになる場面であり、初回から楽しく観てきていた人には、非常につらい気持ちになるシーンでもある。
「おいは国に戻っど」
(中略)
「おいのそばにおって、たもはんか」
「...そいはできん」
「ないごてな。ないごて今度んこつになったか、吉之助さあにはわからんはずはなか」
「わかっちょる」
「じゃれば帰らんでんよしゅごわんどがな」
鹿児島人としては、この最後の台詞のあまりのネイティブさに目が覚め、大久保役の鹿賀丈史の言語感覚の良さに驚くとともに(おそらく彼は外国語を発音するように台詞を覚えたのだろうと思う)、いったい、これでドラマを見ている人たちには意味がわかるのだろうかと心配し、そして場違いながらも、あまりのことにわははと笑ってしまうわけである。
キャストの中にはひどい鹿児島弁の人もいるのだけれど、それはこの手のドラマのデフォルトであり限界でもあるので、「そんなもんだろうな」と思いつつ、物語を追っていると、時々、ほんとにカミソリのように切れる鹿児島弁が散りばめられているわけである。
西郷が薩摩から3000の親兵を連れて上京。桐野利明、篠原国幹、別府晋介といった若い将校たちが宿舎となる民家の庭で、わあわあ騒ぎながら魚を焼いている。
「ないよ、こん煙いは」
「こら、魚が真っ黒い、ひんなっちょっど」
「うんにゃ。おいは、魚は真っ黒かとが好っじゃっとじゃ」
「どひこ好っじゃっでちゅたちわいも、あんべちゅもんがあっどがよ」
これなど、鹿児島にゆかりがある人以外には、絶対にわからないと思う。しかも完璧なイントネーションである。カレン・カーペンターの英語よりもさらに完璧である。野暮ながら訳せば「いくら好きだからといってもお前、塩梅というものがあるだろうよ」というような意味だ。字幕なしで、こういうのが平気で出てくる。
こういった半端でない鹿児島弁は、「篤姫」でも鹿児島弁を指導した西田聖志郎という人の仕事だった。脚本の台詞を鹿児島弁に書き直し、それを(たぶん全キャスト分)、彼がカセットに吹き込んで俳優に渡すということをやっていたらしい。
なんとなく名前は覚えていて、民俗学方面のヒトなのかなと思っていたのだけれど、彼も俳優であり、魚のシーンの最後の台詞を完璧に放つ篠原国幹その人なのだった。
つけ加えるとこのドラマは、司馬遼太郎の原作よりも面白い。まずキャスティングが素晴らしい。特に狂気と軽躁の薩摩隼人(実際にこういうタイプはいる)として描いた有村俊斎(佐野史郎)と、寺田屋事件の鎮撫使として同志を斬り、後に鹿児島県令となり、最後には大久保率いる政府によって斬首された大山綱良(蟹江敬三)の二人は、見事というほかない。ぞぞ気が走るというのはこういうことだという演技。
もちろん、西郷(西田敏行)と大久保(鹿賀丈史)。いずれも薩摩の諧謔という非常に理解と表現がむずかしいことを、脚本や演出にも支えられたのだろうけど、うまくこなしていた。
薩摩の諧謔の例として、西南の役で負けに負けて宮崎県北部の山の中で軍を解散し、300人ほどで敵を突囲して、可愛岳という険しい山を越え、高千穂を経て九州山地のけもの道をたどり、鹿児島をめざすという悲惨な敗走の最中に、西郷は、
「まるで夜這いから逃げてくるようじゃな」と言い、皆も心から笑ったという。
こういうことは子供の頃から薩摩で育ち、リーダーとしての薩摩的な修養ができていないとどうにもならない。俳優の課題として、それも1シーンの撮影があったという間に終わってしまうドラマでやるには、こんなにむずかしいことはなかったのではないかと思う。
]]>遊漁船組合は民間の任意団体だから加入の義務はないのだけれど、事実上これに入らないと、係留がむずかしくなったり、駐車がむずかしくなったり、人間関係がむずかしくなったりする(笑)。台風の時の防御、万一の時の捜索、その他先輩後輩いろいろの人づきあい。これらをマリーナと客の関係ではなくて互助でやっていこうということ。
入会申請書には、「お前さんも青島の港にわらじを脱ぐからには、ここの流儀に従ってもらわなくてはならない。何、むずかしいことではない、手前っちの船は手前っちで守れとそういうことだ。わかったな。わかったら、ここに判を捺しなさい」と書いてあったので、判を捺す。
あさって、前オーナーと係留地の確認に出向いて、早ければ週末にも船を移動させる予定。
]]>曲は誰もが知っているスタンダードナンバー。過激で優しく、ロマンティックで、破壊的で、調和的で、優しい。よくわかんないけど、優しい。
1985年。ニューヨークタイムスで絶賛されたスイートベイジル・ライブの翌日、RCAスタジオで録音。この時のピアノは、スタインウェイの逸品で、オスカー・ピーターソンはこのピアノでしか録音しなかったというアメリカの国宝のような楽器。
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それを、例のヒジ打ちだかなんだかで、「鍵盤を割って」しまい、どうしようと困っているところに、現地の日本人がオニギリを差し入れてくれた。
あろうことか、山下はこの割れた鍵盤を、ご飯ツブで貼って帰ってきたという、嘘だかほんとだかわかんないようなことを、鴻上尚史がライナーノーツで書いていた。LPレコードからCDに買い替えて、あいかわらず聴いている。
1. 虹の彼方へ
2. マイ・ワン・アンド・オンリー・ラヴ
3. ユーモレスク
4. 枯葉
5. トロイメライ
6. スターダスト
7. サマータイム
8. 二人でお茶を
9. ボレロ
10. シークレット・ラヴ
11. ピアノ協奏曲第二番第三楽章
12. P.S.アイ・ラヴ・ユー
13. グッド・バイ
ホーキングは、この本を「誰にでもわかるように」書いたことは明白なのだけれど(理論物理学の本なのに数式が一度も出てこない)、読み進めるのはそう簡単ではなかった。少なくとも一般相対性理論と不確定性原理の概略くらいは(それが文系的な概略であったとしても)頭に入っていないと、なんのこっちゃらわからなくなるかもしれない。
要は宇宙はどうなっているのか。という話なのだけれど、この人のすごいところは「なぜ、宇宙なんてものがあるのか」ってところまで話をもっていくところだと思う(当然、答は出ていない)。
1988年の出版だから、今読むと、ちょっと古いところもあるのだけれど、あらかた状況は変わっていなくて、やはり今だに統一場理論ははるか彼方のようだし、赤方偏移がなぜ全方位的に均一なのかということについての答えも出ていない。
最初は、軽い気持ちで読み始めたのだけれど、なんか、頭からウロコが、がさがさ落ちていくような読書でした。
]]>鯛ラバ・インチクと、一口で語られるわりには「鯛ラバはやったことがあるけど、インチクは...」という人が、けっこう多いのではないかと思う。ぼくも、それほど経験がない。
どちらも、元は漁師の道具である。鯛ラバは九州の鯛カブラや四国のゴンク釣りを原型に、6年ほど前に関西で始まった。インチクは日本海の漁師のもので、こちらは数十年の歴史があるという。
大きなちがいは、鯛ラバがもともとはエビやイソメをつけていた仕掛けを、餌なしで、つまりルアーのように使ってみたら釣れちゃった、というものであるのに対して、インチクは最初からルアーであったことだ。
発展の仕方もずいぶんちがって、鯛ラバは多くのメーカーが工夫を凝らして百家争鳴、百花繚乱、にぎやかにその思想とバリエーションを競っているのに対して、インチクは一部の例外をのぞいて、インチクのままである。つまり数十年、オモリの下にタコベイトがつくという形を、ほとんど変えていない。
こんな具合に、起源も発展もまるで異なる、いわば赤の他人といったような道具なのだが、その釣り方はまったく同じで、底まで落としたら、何もしないで適当に巻き上げてくればよい。
竿もリールも糸の太さも、両者同じ。2012年現在、竿はライトジギングロッドもしくは船用のライトタックルロッドもしくは鯛ラバロッド、リールは小型のベイトリール、糸はPE0.8号~2号というのが標準になっている。
では実際に使ってみて何がちがうのかというと、実際のところ、そのちがいはごく小さいように思われる。同じような魚が、同じように釣れる。
コンディションによっては、マダイは鯛ラバの方が有利という人もいる。青物ならインチクでしょうという人もいる。そうかもしれないけれど、「若干」の範囲ではないか。 インチクでも、もちろんマダイは釣れるし、DANGOという鯛ラバを開発していた時、テスト釣行のたびに異様なほどに(時に同乗のジギングを上回るほど)青物が釣れて、理由がわからなくて困ったこともあった。
どちらもビギナーでも楽しめる。初めて船に乗る小学生でも女性でもOKである。堤防のサビキ釣りより、ある意味では危険度も低い。ただ、鯛ラバの方はリールを巻く時に、あまりぎくしゃくとやりたくない。船の揺れもなるべく鯛ラバに影響させたくない気もする。あくまで一定の速度で、しずしずと巻いてきたいのである。
インチクの方は、そこらへん、もっとおおらかでよさそうだから、よりビギナーに向いているのはインチクの方だと、これも「若干」の範囲ではあるけれど、そういえるのかもしれない。根がかりもちょっとだけインチクの方が少なそうだ。
さて、鯛ラバの原型の鯛カブラやゴンク仕掛けは、もともと遊動式だったのだが、これが製品化されて鯛ラバとしてデビューした時、なぜか固定式になっていた。
おそらくルアーを意識して、スナップで格好よく交換できますだとか、ジグからワンタッチで交換してお楽しみください、といったような考えがメーカーにあったのではないかと思う。
もうひとつの理由として、高密度なタングステン素材を使う場合、穴開けの精度やバリとりが大変だったということもあるのかもしれない。
それが先祖返りして遊動式になったのが、セブンスライドでありGear-LabのDANGOであるわけだけど、これ、一度使ってしまったらもう固定式には戻れない。詳細は省くけれど、そのくらい具合がよいのである。
ただ、ひとつ大きな欠点があって、「遊動式はサビキと一緒に使えない」のだ(笑)。
固定式であれば、一番下に鯛ラバをもってきて、その上にサビキをつなげば、その海域にどんな魚がいるのか探索する、最高のパイロットルアーになる。これほど凄いパイロットルアーは世界中探してもないのではないか。
今回、新しい海域で釣りを始めるにあたって、まずはどんな魚がいるのか探索しようと思っているのだが、今さら固定式の鯛ラバには戻れないので、この際、インチクを始めてみることにしたのだった。 インチクサビキである。
長文のわりには、邪道な話で申し訳なし(笑)。
]]>もう20年も前のことになる。宮崎に移り住んでまもなく、パームスというフリーペーパーを創刊することになった。フリーペーパーだからすべての経費を広告でまかなう。
それ以前にもいくつかフリーペーパーを作っていたから、何ページの本を何部作れば、いくらお金がかかって、ページ割り的にはこうなるということはわかっていた。そこを見込まれて、創刊時だけの約束で編集長を引き受けた。結局、2年もそれをやることになった。
オールカラー64Pを実数で108000部。これをもれなく無料宅配する。このビジネスモデルを考えた時、地元の業界の人たちはキチガイかと言った。それについて否定はしないけれど、この本はさらに部数を増やしてまだ生き残っている。
まともにやれば広告絡みのページばかりで、純粋な記事などは作れない。第一、社員も寄せ集めだからそれを書く人間もいない。それでも無理を聞いてもらって、毎号、何かちゃんとした記事を載せることにした。広告マンがなめられるような本は作りたくなかったということもある。
創刊号に掲載したのが、青島漁師の話だった。朝、暗いうちから港を出て、はえ縄でタチウオを釣る。無線から漁師仲間の声が響いていて、なんだか大声で演歌を歌っている人もいた。青島沖6マイル。朝焼けにピンク色に光るタチウオが見事だった。
宮崎に来て、さほど時間も経っていなかったけれど、青島漁師という響きには特別なものを感じていた。記録に残っているだけで1000年以上、おそらく古墳時代かもっと昔から、島全体が神として祈りの対象だった青島は、綿津見神と山幸彦を祀る。おそらく日本最古に近い海の神である。
その神様のお膝元で、これもまた同じくらいに古い時代から漁を営んできた人々があった。その漁師たちの米びつが、青島沖にある黄金の瀬である。
今でこそGPSのおかげで、ぼくにでもそこにたどりつけてしまうが、数海里も沖に出て日によっては岸もよく見えない中で、青島漁師たちは代々、山立てを伝え、豊かな海の幸を、そして獲りすぎないほどに獲って、長い歴史を刻んできた。
そんな宮崎の人たちの思いが、青島獲れとか青島漁師という言葉に特別の意味を与えていたのだろう。よそ者のぼくにも、それはなんとなく伝わっていた。そして、憧れた。
その青島の港に、船を舫うことになった。なんという晴れがましさだろうと思う。とにかく早く青島神社に詣でて、挨拶をしておこうと考えている。
写真撮影:深澤猛志
]]>「こんにちは。あの、このへんの海、何が釣れるんでしょう」
「あー?そのへんでやりよる人はアジゴじゃろう」
「いや、あの、船で沖に出たら」
「何?船か。今は釣れん」
「釣れんですか」
「見てみい。休みじゃのに、船が出とらんじゃろう。」
「ここに舫ってあった船、売りに出てるんですが、ここらへんの海、わからないので」
「あー。船を買うとか。会社かなんかやっとるとか」
「はい。小さなのを。個人みたいなものですが」
「儲かったな」
「いや。もう、やっとかっとです」
「儲からんでも買うとか」
「陸におると、苦しかばっかりやから沖に逃げんと」
「わはは。じゃーじゃー。」
「門川に一隻あるんですが、ここの船は一回り大きいですね」
「門川の船は持ってこんとか」
「24フィートだから。和船の」
「そら、ここでは足りんな。和船なら27フィートはいる」
「おじさんの船、でかいですね」
「ヤンマーじゃ。28フィートある」
「いいなあ」
「わしはもう40年、ここでやっとるが、最年長になってしもた」
「おいくつです?」
「86じゃ」
「は?70ちょっとくらいかと思ってました」
「甘う見たな」
「いやいや、ほんとに」
「船はいいが、問題は台風の時じゃ」
「はい」
「船を全部、ロープでしばらんといかん。まだ、わしが狩り出されちょる。のさん。」
「はい」
「組合に入れば連絡が行くじゃろうから、来んといかんぞ」
「はい」
「組合に入らんと、車も駐められん。漁協の土地を組合で駐車場に借りとるから」
「はい」
「そこの釣具屋が組合のまとめをしとるから、相談するとよかろう」
「はい」
という具合に、大体の道筋が見えてきたのだった。とはいっても、船の状態がどんなものなのか今のところ不明で、ディーラーの連絡待ち。
しかし、迫力あったなあ、あのおじさん。
]]>子供の頃、ぼくは喘息だった。たいていの運動はすることができたけれど、持久走は止められていたから、「持久走の日限定の病気」みたいな体裁となっているのが、自分でも妙な感じだった。
心ない言葉を浴びせてくるやつもいたけれど、そんなやつはたいてい、人に好かれていなかったから、なんでもなかった。それにたぶん、発作が起きた時の苦しさは誰にもわかってもらえない。一緒にグラウンドを眺めていた、2人の仲間をのぞいては。
2人とぼくのちがいは、彼らが小学生だというのに気の毒なくらいにやせていて、ぼくがまるまると元気そうだったということと、彼らがステロイドの吸引剤を手放せないのに、ぼくがほとんどそれを使わなくて済んでいたということだった。
処方はされていたのだけれど、「緊急時に」と念を押されていたので、なるべく使わないようにしていたのと、小学3年生から夏休みには毎日、午前と午後の2回、学校のプールで泳いでいたので、それなりに丈夫になっていったこともある。
この水泳というのも、当時、喘息の子はだめということになっていたのだが、中村先生という色の黒い、ずんぐりとした、ヒゲ面の先生がいて、にこにこと笑いながら「おれが毎日、プールに来て様子をみてやるから遊びに来い」といってくれたのだった。考えてみれば乱暴な話ではあるのだが、きわめて幸運だったともいえる。
喘息の子というのは、人と自分がちがうことを人生の早いうちに気づくことになるので、内省ということを覚えるのが早い。そのせいだろうと思うのだが、2人とも冗談が達者で話が面白かった。おそらく、どこかで、内省とユーモアというのはつながっている。
そして、ユーモアと人を思いやる心というのも、そんなに遠いところにはない。普段会うと、笑いこけてばかりいるのだが、さすがに持久走の日には神妙な顔をしてグラウンドを見つめており、口数も少なかった。
後になってわかったのだが、ぼくの場合、寒冷アレルギーとホコリのアレルギーがあって、たとえば急に冷たい空気に触れると、くしゃみが止まらなくなる。それを吸い込むと、気管支に炎症が起きた。だから、冬の時期に行われる持久走というのは鬼門だった。
発作が起きると、まず胸がぜいぜいといいだす。呼吸が浅くなってくるのだが、本人としては息苦しいのに空気をうまく吸えない感じで、なんだか肺が小さくなったように感じた。たいてい、発作は夜に起きるので、苦しみながらも眠ってしまうことができれば、朝にはだいぶ楽になっている。
ある夜、いつもとはちがう感じの発作が起こった。ほとんど息を吸えなくなり、のたうちまわっているので、母が背におぶって近所の病院に、文字通り担ぎ込んでくれた。これも今にして思うのだが、喘息というのは心の状態にもかなり影響されるものらしい。病院で処置を受けている間に、どんどん発作は軽くなり、呼吸も楽になってきた。
帰り際に、浜田康治さんというその先生は「大丈夫。喘息で死んだ人はいないからね」といった。そうなんだと深く安心して眠ることができた。これもまた、ずいぶん後になってわかったことだが、日本では毎年、喘息で3000人以上が亡くなっている。世界では25万人を超える。
美しい嘘をついてくれたものだと思う。ぼくはその言葉を頼りに、それから何年かの間、苦しい夜を耐えることができたのだった。
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