2011年6月29日

二人のトップガン

母方の大叔父にあたる安藤重嘉さんがちょっと体調を崩されているということで、住まわれている小林市にお見舞いに行ってきた。当年93歳におなりで、昨年秋頃にひどい腰痛がするというので検査してもらったところ、前立腺にガンが見つかったのだが、「治してしまった」ということで、現在は腰痛もなく数値もほぼ正常だという。医者もびっくりしているのだという。

ただ、今度は奥様がややお具合がよくないとのことで、この夏に楽しみにしていた知覧訪問を延期されたとのこと。

大叔父は第二次大戦中に陸軍航空隊にいて、飛燕に乗って帝都防衛にあたった戦闘機乗りだった。飛行教導隊という、戦闘機乗りに戦闘を教える部隊にいたくらいだから、当時の日本陸軍のトップガンの一人だった。

この方については、「飛燕乗りだった大叔父」に書いたことがあるけれど、これまでほとんど戦争のことを語ることはなかったのに、私が行くとよく話してくれる。「昭和何年の何月何日にはどこにいて、こんな戦闘があった」という具合に、その記憶は驚くほど明晰である。

旧制中学を卒業後、小学教諭を経て志願して陸軍に入った。9歳上の兄が、つまり私の祖父なのだが、この人も同様に旧制中学を卒業して陸軍に入り、大尉まで進級している。相当な努力と猛勉強をしたものらしい。

以前に、どうもうちは軍人の家系なのだろうか。と書いたことがあったけれど、今日の話によって、終戦時に第56軍の参謀長だった内野宇一少将も、遠縁にあたる人であることがわかった。

小林市の水車小屋をもつ製粉所の末っ子に生まれた重嘉さんは、戦争がなければもっと別の穏やかな人生もあったにちがいないのだが、そういう、ごく普通の家庭に育った人の体験した最前線の戦争というものを、この頃になってようやく語り始めた。なにがしかの文章にまとめなくてはならないと、今、私は思っている。

で、重嘉さんが所属していた飛行教導隊というものを調べていて、10年ほど前にパラグライダーをやっていた頃の知り合いを思い出した。宮崎県新富町にある航空自衛隊新田原基地というのは、日本の戦闘機乗りのうち、選り抜きのパイロットが集まった教導飛行隊の基地である。全国の基地を巡回して、仮想敵となって自ら飛び、模擬戦をやりながら戦闘を教えていく。

名前を出すのもナニだから通称で書くけれど、通称ハイパー氏はその教導飛行隊のパイロットだった。ハイパーという名は部隊内のコードネームで、普通、ひげ面だから「ヒゲ」だとか、熊みたいな体躯をしているから「クマ」だとか、そういう感じでつけられる。

その最強の新田原飛行隊において、「ハイパー」と呼ばれることが、どれほど凄いことなのか、当時の私は知らなかった。端正な顔立ちをしたイケメンの青年であり、性格は穏やかでいつもほほえんでいて、ただ人とちがうところは、首がレスラーのように異様に太いのだった。いつもヘルメットが風防にぶつかるようなGを受けているので、みんなこんな首になるのだという。たぶん、あの時点で航空自衛隊の最高のパイロットの一人だったのだろう。

毎日、超音速で空を飛んでいて、スクランブル発進も日常的にある世界にいるのに、余暇に時速20キロかそこらで、また空を飛ぼうというのはどういうことなのかと思わないでもないのだけれど、パラの先輩たちによると「天性の空中感覚」なのだそうだった。つまり三次元+速度+なにかの感覚+またなにかの感覚という、地上にいたのではつかむことも感じることもできない感覚が、いきなり乗ったパラグライダーの世界でも、それとわかるほど優れていたのだそうだ。当然、なのだろうかな...。

70年前の日本のトップガンだった重嘉さんと、現代のトップガンであるハイパー氏。たんに飛行教導隊のパイロットであるということだけではなくて、どこかお二人には似た部分があるように思えるのだ。

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