2012年1月 9日

医者の美しい嘘

冬になると、子供の頃を思い出す。白いシャツを着た大勢の同級生が走っていて、時おり歓声が上がったりもするグラウンドの隅にある、大きな木の下で、仲間2人と一緒にそれを眺めていた。同級生400人のうちの3人だった。

子供の頃、ぼくは喘息だった。たいていの運動はすることができたけれど、持久走は止められていたから、「持久走の日限定の病気」みたいな体裁となっているのが、自分でも妙な感じだった。

心ない言葉を浴びせてくるやつもいたけれど、そんなやつはたいてい、人に好かれていなかったから、なんでもなかった。それにたぶん、発作が起きた時の苦しさは誰にもわかってもらえない。一緒にグラウンドを眺めていた、2人の仲間をのぞいては。

2人とぼくのちがいは、彼らが小学生だというのに気の毒なくらいにやせていて、ぼくがまるまると元気そうだったということと、彼らがステロイドの吸引剤を手放せないのに、ぼくがほとんどそれを使わなくて済んでいたということだった。

処方はされていたのだけれど、「緊急時に」と念を押されていたので、なるべく使わないようにしていたのと、小学3年生から夏休みには毎日、午前と午後の2回、学校のプールで泳いでいたので、それなりに丈夫になっていったこともある。

この水泳というのも、当時、喘息の子はだめということになっていたのだが、中村先生という色の黒い、ずんぐりとした、ヒゲ面の先生がいて、にこにこと笑いながら「おれが毎日、プールに来て様子をみてやるから遊びに来い」といってくれたのだった。考えてみれば乱暴な話ではあるのだが、きわめて幸運だったともいえる。

喘息の子というのは、人と自分がちがうことを人生の早いうちに気づくことになるので、内省ということを覚えるのが早い。そのせいだろうと思うのだが、2人とも冗談が達者で話が面白かった。おそらく、どこかで、内省とユーモアというのはつながっている。

そして、ユーモアと人を思いやる心というのも、そんなに遠いところにはない。普段会うと、笑いこけてばかりいるのだが、さすがに持久走の日には神妙な顔をしてグラウンドを見つめており、口数も少なかった。

後になってわかったのだが、ぼくの場合、寒冷アレルギーとホコリのアレルギーがあって、たとえば急に冷たい空気に触れると、くしゃみが止まらなくなる。それを吸い込むと、気管支に炎症が起きた。だから、冬の時期に行われる持久走というのは鬼門だった。

発作が起きると、まず胸がぜいぜいといいだす。呼吸が浅くなってくるのだが、本人としては息苦しいのに空気をうまく吸えない感じで、なんだか肺が小さくなったように感じた。たいてい、発作は夜に起きるので、苦しみながらも眠ってしまうことができれば、朝にはだいぶ楽になっている。

ある夜、いつもとはちがう感じの発作が起こった。ほとんど息を吸えなくなり、のたうちまわっているので、母が背におぶって近所の病院に、文字通り担ぎ込んでくれた。これも今にして思うのだが、喘息というのは心の状態にもかなり影響されるものらしい。病院で処置を受けている間に、どんどん発作は軽くなり、呼吸も楽になってきた。

帰り際に、浜田康治さんというその先生は「大丈夫。喘息で死んだ人はいないからね」といった。そうなんだと深く安心して眠ることができた。これもまた、ずいぶん後になってわかったことだが、日本では毎年、喘息で3000人以上が亡くなっている。世界では25万人を超える。

美しい嘘をついてくれたものだと思う。ぼくはその言葉を頼りに、それから何年かの間、苦しい夜を耐えることができたのだった。

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