2005年7月 1日

飛燕乗りだった大叔父

こちらは赤ん坊の頃から可愛がってもらったというのに、その後、音沙汰ないどころか先方の顔も知らない。という失礼な関係があるもので、ぼくの家など亡き親父が故郷を飛び出してショーバイ人となったものだから、そんな親戚がけっこうある。

昨日訪ねた、安藤重嘉さんという母方の大叔父がそうだった。88歳でペタンクとミニバレーと登山を現役でやっている。長身でひきしまった体躯、おだやかな顔だち。優しい目元。どうみてもタダモノではない。

聞けばこの人、旧日本陸軍航空隊のトップガンで、飛燕や疾風に乗り、士官学校の教官も務めていた筋金入りの戦闘機乗りだった。なにしろ愛機が液冷で故障が多かったことで知られる飛燕なものだから、整備の十分な本土防空戦で爆撃機を迎撃する時は良いとして、ちょっと足を伸ばすと、たちまち不時着。石垣島や満州で、数知れないほどの不時着をこなして(?)、しまいにはウズベキスタンからシベリアと抑留生活まで経験している。

ちなみに、この人の父上も軍人で日露戦争で金鵄勲章を受章している。そういえば、同じく母方の祖父も陸軍大尉だった。知らなかったが、軍人の家系だったのか。

今まで、ほとんどセンソウの話をしたことがないということだったけれど、なぜかぼくには詳しく話してくれて、奥様やうちの母親は驚いていた。

「6000mまで上がると、舵が効かなくなる。8000mくらいまで上がると、編隊を組むのもむずかしかった。関東地区の防空戦では高高度迎撃が任務だったが、そんなに一気に上がれるものではなかったよ。」

「関東防空隊は大所帯だったが、それゆえに統率がとれていないところがあった。離陸するのでも12機なら12機、一斉に飛ぶというのではなくて、空襲警報が鳴ると、てんでばらばらに飛び上がっていく。上空で編隊を組むのだけどね。一度、B29にエンジンを撃たれて、不時着したよ。」

「与那国と石垣島の間で、二機編隊で飛んでいたら、エンジン故障で僚機がどんどん高度を下げていった。これは海面に落ちるなと思ったら、そこから持ち直して、回ったり止まったりしながら石垣島まで飛び、海岸に降りた。浜に不時着する時は、波打ち際の黒いところを狙えば、なんでもないものだよ。」

「昭和20年の8月14日に、満州で補給に部品をもらいに行ったら、部品をくれない。ロシアの戦車を1時間でもいいから食い止めろという命令だった。戦いに行くのに部品をくれんのでは困ると怒鳴り込んだら、電報を見せられた。『日本陸軍の戦闘部隊は、すべての戦闘を停止すべし』と書いてあった。帰って部隊長にそう報告したら『バカやろう』と怒鳴られたよ。部隊長も、うすうすわかってたんだな。それで、行き場がないものだから私を怒鳴ったんだ。私はただ驚いたよ。」

「翌日、玉音放送があって終戦。玉音放送が終わるか終わらないかのうちに、市内で迫撃砲の音が始まったよ。それから、まず士官学校の学生たちを汽車に乗せて内地に帰れるようにし、私たちは残ったんだ。それから抑留された。変なもので、いざ戦争が終わると、えらい人から先にどこかへ消えてしまって、私たちはだいぶ割りを食ったね」

「疾風が出来てきた時、なぜか私に飛んでみろという話になった。それまでにない複雑な機構で、ろくに説明も聞かないで離陸したので、いざ降りようとすると脚が完全に出ない。燃料がなくなるまで飛んで、胴体着陸で降りた。せっかくの新機を一機、つぶしてしまったが、怒られもしなかった。説明もしないで飛ばした上官が悪いんだからしようがない。」

「燃料が不足なものだから、最後にはアルコールで飛んでいた。アルコールはガソリンよりもエンジンはむしろよく回るのだが、急降下などするとすぐに止まる。これは戦闘では使えんなあと話していたよ。でも、エンジン自体をアルコール用に改造するから、ではガソリンを入れて飛ぼうというわけにもいかなかった。終戦間際の頃になって、コーリャンからアルコールをとる工場ができたりした。今考えると、ばかな話だ。」

話はつきない。近く、温泉でもご一緒させていただこうかと思っている。

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