自民党総裁選が終わって、党三役とか官房長官人事が発表されている。新閣僚も、そろそろ決まりつつあるのだろう。

いわゆる論功行賞をめぐって、各派閥からうちの誰それを何にしてくれとか、あいつをそろそろなんとかにしてくれとか、そういう圧力というか力学というかが働いて、なんていう記事を読むたびに、背中のあたりを秋風が吹き抜けるような気持ちになるわけです。別にきれいごとをいうわけではありませんが。

で、今回、勝ち馬に乗らなかった人々が、ちょうど3分の1、33%ほどいた事実に注目してみた。三人が出る選挙で、一人が得票の67%を占めるというのは圧勝という言葉では足りないほどの圧勝であって、あえてこれに乗らないというのは、彼らなりに計算もあってのことだろうけれど、おかげで、どうにか自民党は「選挙」としての体裁を整えることができた、という言い方もできる。

事実上、日本の首相を決める選挙で、たとえば得票率が90%ということになると、これはもう民主主義とはいえなくなる。イラクの大統領選挙で、フセイン氏が「投票率100%、得票率100%」を誇示したように、絶対多数というのは、危ういという以上に、どこか病んでいる。80%でも疑念が生じる。

その意味で今回の67%というのは、日本人の(自民党のだが)民意の発露の仕方としては、適当だったのだろう。あえて勝ち馬に乗らなかった人たちの一部にでも、そうしたバランス感覚が働いたことを祈りたい。民主主義下の巨大政党というのは、そういう部分も必要なのだろうから。

で、安倍新総裁・新総理だけれど、ぼくはこの人の歴史認識には疑問をもっている。これから、おいおい明らかになってくるだろうけれど、東京裁判、憲法についての考え方など、あまり尊重できるものではない。この人の過去、特に大戦と戦後のこの国のありようについての認識は、単にポピュリズムでそうしているのではなくて、本心からそう思いこんでいるようだ。外見とそぐわない表現だが、暗い情念のようなものを感じている。

政治家は国家を代表するのか、国民を代表するのか。選挙のありようを考えると、まず第一義には後者であるべきなのだが、人によってここらの天秤のふれ方はちがう。安倍氏は前者に重い。それだけならいいのだが、歴史認識(現実認識の母になるものだ)があのようでは、アジアだけでなく欧米も含む諸外国には異様なものに映っているのではないか。すでにニューヨークタイムスやワシントンポストで、連日のように安倍氏の歴史認識、戦争認識への警戒感が出はじめている。

国家の体面や愛国心など、国民の多くは求めてはいない。平凡で安逸な生活こそ、実は得がたい国の宝であり、国の基礎になるものであり、まずはそれを守るのが、つまり国家を代表し、国民を代表する立場にある者の仕事なのだ。少なくとも日本国憲法は、そのような考えを土台にしている。一方、それが気に入らない政治家も、特に戦後生まれの若手には多い。

改憲論についていえば、海外派兵をめぐって「自衛隊を海外に派遣することが普通の国だという議論があるが、普通の国というよりも理想の国が大事だ」といった後藤田正晴氏の言葉を思い返さなくてはならないだろう。あの人は政治の重さや怖さを知っていたように思う。一時のやんちゃが何を引き起こすかを知っていた。

そんなことを含めて、67%でよかったと思っている。自民党も、ぎりぎりのところで良識が機能したという言い方は、ひいきが過ぎるかもしれないけれど。