2011年11月16日

落語のイリュージョン

落語にイリュージョンという概念を持ち込んだ立川談志は、たしかにその時点で周囲の噺家とはかけ離れたところにいたと思う。

思えば、この人くらい落語と現代というものに悩んでみせた噺家はいない。師匠に教わった通りに、ろくに言葉の検討もしないで古典をやっているだけの「本格派」や、ただ現代の事物を落語に置き換えただけの「新作派」などは、談志からすればバカに見えて仕方なかったことだろう。

生きてつながる噺もあれば、絶えてしまう噺もある。それを決めるのは時代であり、その時代と折り合いをつけながら、どうにかつなげていくのが噺家の力というものだろう。

ごく若い頃から古典に天才的なキレを見せ、漫談もさえ渡り、「笑点」を創り、落語協会を脱会して自ら家元となって多くの俊才を育ててもきた談志が、ある時に言い出したのが「落語はイリュージョンである」という言葉。

今、これを深く考察する余裕はないのだけれど、感覚的にはそんなもの当たり前だろうと思うし、談志も当たり前だと思っていたはずだ。にもかかわらず、それを言い、広めていかないとならない情けなさは、談志があまりに世間が見えすぎていたことによる。

落語はイリュージョンであるけれども、というより良い噺にはどこか必ずイリュージョンがあるものだけれど、それを純粋に抽出しようとすると、言葉はむしろ詩に近づく。あるいは抽象画のようになってくる。詩や抽象画では大衆に届かない。弱々しい盆栽芸になるおそれすらある。

だから、「イリュージョン落語」というものは、あまり追求しない方がいいと思うのだけど、イリュージョンをいう手前、何か見本を見せなければ仕方ないことになって、こんな小咄をやる。

「縁の下で飼ってたキリンどうしたい」
「トックリセーター着るのがいやだって家出したよ」

これだけのことであれば、談志は天才というよりも、むしろ落語の苦学生のように思える。大きな使命感と洞察力を持ちながら、それを大衆に伝えるのに四苦八苦している姿が、痛々しくもある。

たとえば、志ん生。

「えー。寿司屋の茶碗というものはぁ、大変、この、大きなもんですなっ。
こないだなんか、茶碗の中ぃおっこっちゃった人がいたくらいなもんで」

とまあ、こちらの方がイリュージョンの天才なんだろう。

談志は、こんな志ん生のおかしさにイリュージョンの名を与えて、それを落語のひとつの本質として抽出しようとした。そして、同じ感覚を持っていると信じた太田光や松本人志や弟子の志らくに、何かを伝えようとした。

でも、ほどほどがよかったのではないかと思う。抽出するよりも隠し味としてとっておいて、芸の裏にひそむナイフを研いでいた方が。

わかるやつだけわかればいいんだといっておいて、こんなところで談志は妙に親切で優しくなろうとする。切り捨ててしまえばよかったのだ。粋は、それがわかる人が少ないから粋なのだから。

でも、それもこれもひっくるめて、談志の魅力ともいえる。あの人は、いつも不必要な四苦八苦とじたばたを、自分の中に引き込んで、そのエネルギーの中で輝いてきたのだろうから。

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