WBC日韓戦の翌日、L.A.のこと
2009月3月のワールドベースボールクラシックで、日本に勝った韓国選手の一人が、試合後にマウンドに太極旗を立てた。みんな、唖然としたことだろうと思う。ぼくはやはり、この場面が悲しかった。
あの「やってやったぞ」という韓国選手の表情は、昔、子供の頃に何度も見た顔に似ていた。仮想敵へのちょっとした報復。よく考えもしないで、受け狙いで、しかもどこか賞賛を期待していたりする、愚かな大人の顔だった。
あれを指して韓国人の民度を云々する声もあるけれど、60年代から70年代くらいの、つまりぼくが子供の頃は、近所でよく見た顔だった。日本中、似たりよったりではなかったか。
そして今の日本人は、それより少しだけ成熟している。とはいえるのかもしれない。少なくとも、その報復にマウンドに日の丸を差す選手はいなかった。でも、あやうい。似たような言動は、今でもいつでも、ぼくらのまわりにはある。仮想敵がいないと、自分そのものまでなくしてしまうような脆さ。
ロサンゼルスのトーランスという町にミツワマーケットという、日本のスーパーがそのまま越してきたような店があって(って、ちょっと滞在しただけなのにな、おれ)、そこは地元の日本人のよりどころみたいになっている。トーランス自体が日本の企業が集まっている町なので、つまり、ミツワマーケットはL.A,の中の日本、の中の日本のような場所なのだ。
2009年3月、あの試合の翌日に、その店の中を太極旗を持って走り回った韓国人の青年がいた。現地の日本人の反応は、「ためいき」とか「苦笑」程度のものだったのだが、地元の韓国人コミュニティは激怒した。
この青年は学業優秀で、コミュニティから奨学金をもらって大学へ通っていたのだが、この行為を厳しく叱責され、奨学金も止められたのだという。おそらく事実上、コミュニティから追放のような形になったのではないだろうか。
一度、国を出てしまえば、わかることも多いのだろうと思う。狭い土地で、狭い視野で、隣のものをつかまえて喧嘩をふっかけたり、意味もなく対立したりするのは、だから悲しく映る。それが同胞であれば、むしろ怒りすら湧いてもくるのだろう。
明治になるまで、日本には国家という概念が曖昧で、国といえばまず藩のことだった。その藩同士で戦争もした。今では戊辰の役は内戦と呼ぶけれど、それは後の時代からの視点であって、あれは国同士の戦争だったのだ。ぼくの先祖も、薩摩藩の端っこに住んでいて、郷士という正味は百姓の暮らしをしていたのだが、西南の役に狩り出されて戦に行ったという。
つまらないことをしたものだと、今となってはいえる。でも、そこで流れた血の後に藩はなくなり、国が生まれた。今では薩摩人と会津人が、互いに本気の憎しみを込めて斬り合うこともない。反発から共感に至るには時間と犠牲が必要なのかもしれないけれど、いつかその国の境がなくなったら、次には何が生まれるのだろうかと思う。
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