2011年10月14日

映画>イントレランス

『イントレランス』(1916/D.W.グリフィス監督)。

ある会合で右のヒトにつかまって、延々と韓国人の悪口を聞かされ、悲しくなった。その人のことも、悪口をいわれる韓国人も、それを聞かされる自分がそこにいることも、とにかくすべてが悲しく、腹立たしかった。同時に、この映画のことを思い出した。

イントレランス=不寛容。これがつまり、すべての悲劇の始まりなんだと、映画の創世記にグリフィスは描いた。不和も、喧嘩も、戦争も、憎しみも。そしてたぶん、それは、残念ながら人間が本来もつ性質でもあるのだろう。乗り越えられるべき業であると信じたい。

韓国人とか日本人とか、宮崎人とか釣り人とか、ゲーマーとかおたくとか、なんでもかんでもひとくくりにして悪口をいうような粗雑な感性に、今、ぼくはいちいちつきあうことはないのだけれど(ぼくにとって大切なのは、つねに今、目の前にいる人であり、あるいはこれから出会う人であり、他人が形づくった無名無数の属性ではない)、つきあわないつもりでいても、向こうから踏み込んでくることもある。

えらそうなことはいえない。今日の昼間、非常に不愉快な出来事があって、うっかりステレオタイプな愚痴をいいそうになった。そして、またこの映画のことを思い出した。

イントレランス。95年前に、壮大なお金をつぎ込んで、興行的には壮大に失敗したこの映画が、今ではアメリカを代表する映画のひとつになっている。時代は第一次世界大戦の最中であり、さらに第二次大戦も起き、その後もたくさんの戦争で人が死に、今もまた死んでいく。グリフィスが思い描いた道は遠い。

よく知られている古代バビロニアの宮殿のシーン。その超俯瞰撮影のために、巨大な足場を組んだのだけれど、この組み立て式の足場のことを、日本ではイントレという。建設、舞台方面の人なら知らない人はいないくらいに、その名はなじんでいる。

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