2011年7月 9日

本>津軽三味線ひとり旅

『津軽三味線ひとり旅』(高橋竹山)。

初版は1975年。竹山の聞き書きによる自伝。字数はさほど多くはないのだが、内容が凄すぎて、面白く読んだとか楽しめたとか、そういう感想で終われる本ではなかった。心の奥にあった、ほとんどこれまで鳴ったことがない梵鐘のようなものが、ぼくの中でゴーンと鳴ったという感じである。

幼い頃にハシカの後遺症で視力をほとんど失ったことで、竹山は職人になるかと大工になるとか、商売人になるとかいった道はほぼ閉ざされてしまって、15歳で母に連れられてボサマの弟子になる。ボサマとは、盲人が三味線などを弾いたり歌を歌ったりしながら、家々を軒づけして歩く職業で、竹山が再三書いているように、それはホイド(乞食)の暮らしである。

一方で、人の家の前でただ「くれ」といえば乞食だが、三味線でも尺八でも何かやれば、それは乞食ではなく芸である。と竹山は言っている。もらうための芸なのだ。津軽三味線というのは、その多くの部分を、軒づけでその日その日をしのぐための芸として育ち、伝わってきたのだろう。

ホイドになるのでも弟子入りして修行をしなくてはならなかった。逆にいうと、一合ばかしの米を与えてくれる農家だって、年がら年中、朝から晩まで働かなくてはどうにもしのぎがつかないような人たちであって、そんな厳しい津軽の土壌の中で、盲目の人がどうにか暮らしていくための仕組みとして、ボサマというものがあった。女性の盲人はイタコになる人も多かったという。

お話にならないような貧しさと差別の中で、それでもボサマの歌にお金やお米を与える社会としての豊かさのようなものを、今の社会と比べることはしないが、ぼくが子供の頃までは、家々を回る、いかにもくたびれた僧服を着て笠をかぶった坊さんがいた。家の前で手を合わせて「おーーーーーーーーーー」と低い声でうなっているだけで、お経のようなものは聞いたことがないのだが、そんな時は母は欠かさずなにがしかのお金をあげていた。今、そんな人も見なくなった。

17歳で修行を終えて独り立ちした竹山は、それから三味線を抱えて青森、津軽、南部、三陸、北海道あたりを歩くことを始める。地元の小湊にいたのでは食えないので(さすがに地元では軒づけはできないものだったらしい)、それから長い長い年月を、ボサマとして放浪する。時には香具師の真似事をしてインチキな薬を作って売ったり、飴売りをしてみたり、とにかくその日をいかにしのぐかということだけでやってきた。

家々を回るのが楽しいことであるはずがない。三味線を弾くことすら楽しいとも思っていない。とにかく生きるためのボサマであり、三味線なのだった。もらうことが目的なのだから、三味線などなんでもよかったし、今、津軽三味線といえば太棹ということになっているけれど、高価でもあり、何より重くて持って歩けるようなものではなかったので、ボサマ時代の竹山は使ったことがない。

軒づけをして歩いて、昭和の初期頃で1銭ほどもらう。農家だと米1合である。宿代が30銭から1円。歌いながら日に四里も歩いて、なかなか宿にも泊まれないから野宿も多い。といって北国のことだから野宿できるのは夏の間だけである。半年も旅をして歩いて、小湊に帰っても、懐にはいかほどのお金も残らない。

この本の中で、いろんなことを知ったけれど、あっと思ったのは、デロレン祭文、あほだら経、大黒舞といった軒づけの芸、ホイドの芸だ。三味線も津軽の歌も、つまりこれら大道芸、軒づけ芸とともにあり(もちろん一流の芸人はちゃんと一座を組んでショーのようなことをやった)、たとえばデロレン祭文が後の浪花節の遠い先祖になっているように、やがて寄席の色物芸として洗練されていったものもある。

さて、現在聴くことができる竹山の三味線。あれはなんだったのかというと、少なくともボサマ時代の芸ではなかったようだ。あんなに精魂すりへらすような先鋭的な演奏を、家々の軒先でしていては、ボサマの暮らしは成り立たないだろう。

もともと津軽の三味線は歌の伴奏であり、曲弾き(独奏)が洗練されたのは少し後の時代、おそらく戦後の民謡ブームの中で、歌い手と競り合うようにして三味線の技法が高まっていく中で、完成されていったのだろうと思う。

そして、竹山が東京で少しずつ注目されて、ボサマとしてではなく、一人の演奏者として認められ始めた時に、それならこんな曲弾きもあると自分の記憶の蔵から掘り起こしてきたものであったらしい。いってみれば、その時にようやく三味線の独奏というスタイルが定着した。そして静かに、真剣に、自分の芸に向き合ってくれる聴衆を得て初めて、あの曲弾きは生き残ったのだ。そうでなければ、竹山自身、忘れて埋もれてしまったものでもあったのだろう。

今、ぼくらはそのエッセンスの部分だけを聴いている。三味線弾きとしての竹山の、最良最高のひとしずくではあったにしても、ただのひとしずくであることには変わりがない。その数十分の演奏にも、竹山の音色には津軽の景色が(見たこともないし、今の時代にあるのかどうかもわからないのだが)あるように思えるのだ。

地吹雪の中で屹立する山のような峻厳さ。あるいはその峻厳さよりも、さらに厳しいさげすみと屈辱。情けなさと切なさの日々。それを大人になって乗り越えることも包み込むこともしないで、どこかで激しく脈うっているような怒り。であるのに不思議なほどの清澄さと優しさ。もはや、何を書いても言葉が追いつかない。

だから、この本から得たものは新鮮ではあったけれど、いずれもそうなんだろうなあと納得するものだった。つまり、本の言葉は、すでに彼の三味線で語られていたのだと思う。

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コメント

初めてコメントします。
OOO28ECを購入しようと思い、JUN様のブログがヒットしました。
率直なギター論に好感を持ちコメントさせて頂ました。
これからも時々拝見させて頂きます。
今日の記事とは関係なくてごめんなさいね。

ざっちさん、はじめまして。

OOO-28EC、とてもいいギターですね。私の28ECは請われて
友人のもとにいってしまいましたが、最近は音の抜けも非常に良くなり、
なんともいえない美音を奏でています。

で、私は最近、D-18GEを弾いていて、これもとんでもなくいい音が
するのですけど、なぜかネックがデリケートで、なかなか気が抜けません。
新品で買って2年ほどの間に、本格的なネック調整に1度、
簡単な弦高調整はしょっちゅうという感じです。
ショップに出すのが面倒なので、最近は弦高調整は自分でやっています。
OOO-28ECも、たしか1度はアイロン調整に出したと思います。

先週、ロサンゼルスにいて、あちらの楽器店でギターを試奏してみたら、
何を弾いても西海岸サウンドになるので、笑ってしまいました。
マーチンも、日本で弾くよりも一段、乾いた明るい音のようでした。

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