新燃岳の噴火に思うこと
昨日から続く霧島・新燃岳の噴火は、ここ最近ないような規模のものであるらしい。ちょうど霧島に桜島の噴火口ができたようなものだろうか。
南九州一帯には原と書いてハルと呼ぶ、独特の地形がある。標高70mから120mくらいの台地の連なりなのだが、それはてっぺんが見事に均一の高さになっていて、ちょうど山の上にもうひとつ地平線があるように見える。
これは約2万5000年前に大爆発した姶良カルデラの火砕流と降灰が積もってできた。ハルは鹿児島市にもあるし、宮崎市にもある。つまり、南九州の土地という土地が、100mもの厚さの火山性の堆積物で埋もれてしまったわけで、今、ところどころにある平地は(私が住んでいる宮崎市も含めて)、その埋もれた堆積物を川の流れが削って、ついこの頃できたようなものだ。だから、日本でもっとも早くに人が住み始めたといわれる南九州に、縄文以前の遺跡や遺物は少ない。みんな山の下にある。
世界最大といわれる姶良カルデラがどのくらい巨大か、錦江湾の地図を見るとよくわかる。湾奥の沿岸が丸くなっている。直径約20km。桜島も太古からあそこにあるわけではなくて、姶良カルデラの爆発のおまけとして、海底火山が生まれ、それが盛り上がってできたといわれている。
姶良カルデラの北には加久藤カルデラがあり、その北には阿蘇カルデラがあり、北西には阿多カルデラがある。とにかくこの一帯は、マグマ溜まりの上に人が住んでいるようなものなのだ。
霧島には古くから山岳信仰の歴史があり、中世には山全体が霊場となって全国から修験者が集まった。これもおそらくは、その原型をたどれば、それより数千年も、あるいはさらに古い時代から受け継がれた火を噴く山への畏れがもとになっていることと思われる。
私も氏子ということになっている高原町の狭野神社も、そうした修験道場として多くの社や寺が集まっていたけれど、記録に残るだけで延暦7年(788)、文暦元年(1234)、慶長15年(1610)、享保3年(1718)の4回、霧島の噴火によって本殿が焼失して遷座・再建を繰り返している。これは霧島周辺のほとんどの神社も同じようなことで、霧島六社権現に数えられる神社で噴火による災害・焼失を免れたところはなかったと思う。
そういえば、鹿児島北部から霧島盆地周辺の田んぼに鎮座する田の神像も、もとは一人の修験者が作ったものらしい。そして、宮崎のそれはほとんどが霧島山の方を向いて立っている。田の神は山の神が、春になって里に降り、人々に実りの恵みをもたらすという。すべてを与え、すべてを奪う山への畏れと祈りが、あの姿に込められているのかもしれない。
コメントする
(初めてのコメントの時は、コメントが表示されるためにこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまでコメントは表示されませんのでしばらくお待ちください)