2010年12月29日

第九を聴く

年末になると第九を聴いたり演ったりするのだが、どうも日本だけの習慣らしい。これを面白がって、最近、欧州でもそういうことをやるようになったという話もある。こちらは本家の日本人だから、毎年、今時分になると自室で第九を聴くわけである。

何枚かCDを買ってみたのだが、結局、1枚だけ残った。フルトヴェングラー/バイロイト管弦楽団(1951)。世間の評判を頼りに買ったのだが、なるほど、これは...、という演奏である。とにかく熱血であり、血湧き肉躍るというか、マッシブというか。

特に第4楽章の冒頭などは、最初のうちは始まった瞬間に、打ちのめされるような圧倒感があった。最近は、ちょっと「おいおい」という感じもある。そこまでやらんでも...、というか。あれを暗く熱きゲルマンの情念といってしまえば、それはその通りなのかもしれないけれど、むしろこの頃は、ケレンとかカブキとかいう言葉を思い浮かべてしまう。

素人だから好きにいうのだが、ベートーベン自体が、どうもケレンの好きな人だったのではないかという気がする。もともと、音楽で文学をやっているようなところがあるなあと思っていたのだが、特にこの交響楽はその感が強い。何しろ、交響楽に歌詞がついている。

音楽というのは、言葉に置き換えられるものではないし、言葉もまた音楽に置き換えられるものでもない。だが、時に、やすやすと言葉を超えることもできる。たいていの音楽家は、そういう覚悟や諦念の中で、自分の楽曲に向かっていくのだろうと思うわけだけれど、べートーベンという人は、どこかその点で諦めていないようなところがある。

第六「田園」にも、各楽章に言葉が添えられている。第一楽章は「田舎に到着したときの晴れやかな気分」だ。いったい、これはアリなんだろうか。

たとえば私が、Cから始まる、わりと明るくシンコペートするラグタイム風のソロギターのフレーズを作ったとして、これに「ケイコちゃん(仮名)にメールを書いたのに返事がないので、やけを起こして緑のたぬきを3個半食べた時のむなしい満腹感」などという思いを込めたとしても、これは絶対に伝わらない。当たり前だ。

それをベートーベンは平気でやる。長い時間、伝わってきた楽曲だから、そういうものかと受け止めているけれど、本来、これは反則なのではないか。そういえば「エリーゼのために」もそうで、美しいピアノの楽曲を書いて、ほれた女の名をつけるなど、ちょっとケレンが過ぎるのではないですかと。

第九というのは、そういうベートーベンの、人より過剰な量をもつ感情やケレン味が(そして爆発的な才能が)込められた曲である。というのが、おそらくフルトヴェングラーの解釈で、だから、このバイロイト盤は圧倒的な迫力をもったのだろう。まして第4楽章は、生涯に9つ書いた交響楽の最後の楽章なのだし。(それを合唱で締めるところもまた、この人の言葉への思い入れをはじけさせたという、うがった見方もできなくはない)

最近、音質が向上した復刻盤が出ているので、こちらを買うのがおすすめではあるけれど、私の持っている旧盤の、分解能が悪くて、低音などはカタマリになって出てくる音質もまた、録音された1951年をはるか飛び越えて、19世紀のホールで聴いているようで、不思議な味わいがあると思う。

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