2010年11月28日

ヤマハブラザーズのこと

いつの頃からか、おそらくPRIDEが始まってからこっち、といってもいいのだと思うけれど、プロレスはかなり高度なイマジネーションがなくては、楽しめないジャンルになってしまった。あるいは、観客のイマジネーションという、助け船にすら耐えられないレスラーの技量の不足を、言葉で補うようになってしまった。

ヤマハブラザーズがリングを駆け回っていた時代は、幸いそんなこともなく、全日本のリングサイドにはビール片手のおじさんが赤い顔をして、にこにこと試合を眺め、新日本ではその最強伝説を信じる、少し若い世代のファンが、憧れと時に殺気ただよう視線をリングに投げかけていた。

ヤマハブラザーズ。山本小鉄と星野勘太郎。ともに身長170cmそこそこではあったけれど、彼らを小柄だと思ったことは一度もない。二人はともによく似た体格をしていて、何よりもあの信じられないような太ももの肥大ぶりと、それに負けない上体の頑丈な作りは、いかにも新日の道場で揉みにもまれて出来上がった肉体という感じがした。

あの肉体こそが新日本の象徴だったともいえる。ほかの団体で、同様の肉体をしていたレスラーはいない。3000回のスクワットを10年もやれば、あんな体になるのだろうかと、そういう幻想をぼくたちに与えてくれた肉体だった。

この二人がヤマハブラザーズというタッグで活躍していたのは、1967年から山本が引退する1980年までだった。67年にアメリカでタッグを結成したわけだけれど、このタッグ名が日本で復活するのは、少し後だったのかもしれない。その後、1972年に猪木が新日本プロレスを設立するまで、プロレス界はごたごたが続き、二人のような前座・中堅クラスに陽が当たることはなかったように思う。

だものだから、おそらくぼくらがテレビで彼らの勇姿を見ることができたのは、1972年から1980年までということになる。あまりにも短い期間なのだが、その印象は鮮烈だ。

中堅クラスだから、毎週、放送で見られるわけでもない。邪道・外道のように固定チームではなかったので、いつも二人のタッグで出てくるわけでもない。それでも、たとえば星野のヘッドロックをしながら繰り出されるマシンガン・パンチ。白いタイツをはいた山本の、空から怖い親父が降ってくるようなダイビング・ボディプレス。そこにいたるまでの、地味ながら洗練されたグラウンドの攻防。今にして思うと、あれがプロレスだったのだなと思う。夢のある時代だった。

8月28日の山本小鉄に続いて、この11月25日、星野勘太郎まで逝ってしまった。小さいながら馬力のあるバイクにたとえられた、あのヤマハブラザーズが逝ってしまったのだった。

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コメント

小鉄さん、ジョー樋口さん、そして星野勘太郎・・・・

続きますねぇ。

僕の中ですごい昭和の漢たちが、逝かれてしまうのは寂しい限りです。

星野と言えば、僕たちの世代だとUWF前田への控室殴り込みとか、確かライガーだったかな?これまたケンカマッチ、それからなんと言いましても魔界倶楽部総裁ですね。

そういえば、ユーチューブで見たけど猪木VS星野のシングル戦ってあったんですねぇ。

新日らしい試合でした。

星野は猪木さんよりかなり背が小さいのに太もも回りはかなり太いのにびっくり。

あれぞ憧れのレスラー像だと改めて思いました。

ロッカーTさん

前田とは、まったくかみ合わない試合をしたこともあったようですね。
星野のジャブが終止、前田の顔面をとらえて、
セメント流(あくまでスタイルとしての)の前田が、それに全然対応できなかったという。
殴り込みは、その試合の後だったのかな。

あと、ダイナマイト・キッドとも、そんな試合になったことがあったようでした。
これらは放送されたのかどうだったのか、私はWEBで読むまで知りませんでしたが。

こういう、セメントではないけど、掟破りな試合があったり、
あるいは、試合の中での一瞬、セメントな気配があったりしたのが、
あの頃の新日の危うい魅力でもありました。

誰が最強かということは、プロレスの枠の中では無意味なものであるとしても、
その幻想もまたプロレスのうちということだったのでしょう。
北沢幹之や、カシン、坂口、長州、古くはケンドー・ナガサキなんかも、
マニアにとっては、そういう幻想をまとった人たちでした。

星野は、気の強さで最強、という人だったのかも。

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