多感なおじさん
同年代くらいの友人のブログを読んだりしていると、「どうも年のせいか涙もろくなった」とか「涙腺がゆるんできて困る」みたいな書き込みがけっこうあり、そういうものを読むたびに、「おれ、いくつだっけ」とあらためて思ったりする。そのくらい、自分の年齢というものを忘れている。というか、関心がない。
涙もろいのは昔からだから、特段、最近になってそうなったということもないのだけれど、もともと感情の量が人よりちょっと多い方だから、その差がわからないともいえる。
ただ、昔では泣かなかったかもしれない局面で、涙がちょちょ切れるということは、あるにはある。ここ数年で、一番大泣きしたのは、子猫が死んだ時と、『わが谷は緑なりき』という映画を観た時だった。
猫については、10代でも20代でも変わらなかっただろうけれど、『わが谷は緑なりき』は、大人になり、男というものを背負い、家族をもつ立場になったことで、ちょっと反応がちがっているのかもしれないという気はしている。若い頃に観たとして、あんなに次の朝まで涙が出て困るということがあるのかどうか。
人は生きていると、いろんな経験をする。しかもやっかいなことに、そのすべてはどこかで記憶として刻まれていく。長く生きているうちに、楽しいこともたくさんある代わりに、苦しみや悲しみの記憶もどんどん増えていくわけで、普段はうまく忘れているものが、ちょっとしたきっかけでそれで湧き上がってくることがある。
『わが谷は緑なりき』の、あのウェールズの炭坑町の親父が、あんなに見事な男に見えるというのは、つまり、それだけの経験を自分がしてきたということだろう。若い時代には、経験も大切かもしれないけれど、それがないのは仕方がないから、直観を頼りにしようと考えた。それを自分なりの羅針盤にして生きてもきたわけだけれど。
若い時代だけが多感なのではない。年齢を重ねると鈍感になるなどというのも嘘だ。むしろ、生きてきたことの経験を、いやがうえにも重ねることで、若い時代には感じることができなかったものが、胸に迫るということがある。
私よりも若く死んだうちの親父などは、高校野球のひとつのプレーが万感胸に迫って涙ぐんだりする人だった。あれも若い頃には、よくわからなかったけれど、今はわからないでもない。親父なりの『フィールド・オブ・ドリームス』が、きっとどこかにあったのだろう。
だから、涙腺がゆるむなどというだらしないイメージでくくるべきものではなくて、より多感なおじさんになってきたのだといえるのではないか。まあ、自分のことをおじさんとか親父とか思ったことも、思わされたことも、幸い、一度もないけれど。
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