2010年6月10日

新内閣のこと

内閣が変ったというのに、何も書く気がしないというのが、今の時期にこんな形で日本の首相を引き継いだ菅直人政権のありようを、なんだか裏返しに表わしているような気がする。

安倍、福田、麻生、鳩山と四代続いた御曹司による短命内閣で、われわれが知った最近の日本の政治というのは、簡単にまとめると「政策や実力ではなくて、選挙用の表紙として中身を問われずに首相が選ばれていくこと。及びその深刻な弊害」ということになると思う。そして言葉はどんどん軽くなり、鳩山氏でそれはついに宇宙的にまで軽くなってしまった。政治不信などという生やさしいものではない。政治という二文字そのものが、実にヘリウムのごとく軽い。

もともと首相としての資質を問われずに首相になっているのだから、それを支える何がしかの担保が必要なわけだけれど、自民党の場合は目先、倒壊寸前のところにつっかい棒をあてただけだから、そんなものはなかった。鳩山内閣では、小沢一郎という実力者が担保になるはずだったけれど、彼の場合は国民に根ざした実力ではなくて政界の中の実力に過ぎなかったので、やはり破綻してしまった。いずれ、巻き返してくるかもだけれど。

安倍、麻生がどのくらい資質に欠けた人だったかというのは、つい昨日の「菅内閣は左翼政権」、「君が代や日の丸を否定した人間が首相になりおおせた」といった発言でもわかる。自民党の中ですら、誰が今、そんなのんきな議論につきあうものか。大体、憲法を否定しておきながら、その憲法下で首相になりおおせて平然としているというのは、どういう了見なのだ。

食うに困っていないから、今だにイデオロギーで遊んでいられるのだろう。昔のサムライと同じことで、武士には禄があって遊んでいられるから忠義の礼のと言っていればすんだと、勝海舟も言っている。ショミンにそんな暇はないのだ。

福田氏については、相変わらずワタシはやや同情的であって、あの人は世が世ならちゃんとした宰相になれたかもしれない人だったと思う。少なくとも、こんなつまらないことは言わなかった。したがって二世だからよくないということはない。ただ、消去法で選ばれてしまった人ではあって、これも他に人がいないのでは仕方がない。

宮崎のようなイナカに住んでいると、自民党の良さも悪さも身近な実感として知らされる。都会の暮らしは政治のタスケがなくても成立すると、きっと都会人は思っているだろうけれど、田舎はもっと露骨に政治が生活に効いてくる。市町村単位、県単位、国政単位の、なんらかの関与が非常にありがたいもののように思える人が多いだろう。

農業ひとつとってもそうで、あんなに労力あたり、土地面積あたりの生産性の低い産業はないのだが、生産性が低いから後に回していいわけではない。農業は単なる産業ではなくて、その現場ではしばしば他に選択の余地がない生活の形であり、俯瞰的には国家戦略なのだということが、それが抱える大きな矛盾も含めて自民党はわかっていた。少なくともわかってくれているはずと、農家は信じていた。いつのまにか、農業と建設で食うしかない地方は、極端な弱者の立場に置かれている。

この腹ぺこをどうしようかと不安におののいている地方の味方であるべき自民党の元首相が、だから今さら君が代が左翼がといっているのは、いったいなんのことなのだと。彼らは忘れている。人は腹が減れば、みんな保守を捨てるのだということを。もう少し、地に足の着いた、ちゃんと腹の足しになるような政治家は出てこないものかと、無理を承知で田舎は願っているのだ。

20パーセントにまで落ち込んだ内閣支持率は、菅内閣になって60パーセントに盛り返したという。この掌の返し方も、これはこれで怖いことのように思えて仕方ない。政治を人気投票にしてしまったことのツケが、この先どんな形で現われてくるのだろうか。

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