映画>素晴らしき放浪者
『素晴らしき放浪者』(ジャン・ルノワール監督/1932)。
30年代初頭のフランス映画。モノクロだけどトーキーではある。
放浪者(日本語で正確に言うと浮浪者)ブーデュは、空と陸との間で犬を可愛がりながら気ままに生きていたのだが、ある日、人生はくだらないと考えてセーヌ川に身を投げる。それを見ていた本屋の主、レスタンゴワは何を考えたか英雄的行動をとってこの男を救う。
ブーデュというのは、常識の破壊者であり、それ以上に空間の破壊者である。人と人の間にある「間(ま)」というものの感覚が決定的に欠如しており、おまけに多動症で、せっかくの恩人の家庭をむちゃくちゃにしてしまう。この無教養による破壊を、昔は笑いととる余裕もあったのだろうけれど、隣人すらがエイリアンになりうる現代の日本人には、たぶん笑えない。
やがて旦那に放っておかれたレスタンゴワ夫人をテゴメにして愛人関係となり、返す刀で主の情婦でもあるお手伝いのアンヌ=マリにも迫る。まったく鼻もひっかけない態度だったアンヌ=マリなのだが、ブーデュがレスタンゴワからもらった宝くじが、10万フランの当選くじであることを知ると、ころりとなびいて結婚という段取りになる。
で、結婚を祝ってセーヌ川で小舟に乗っていたところ、また多動症で川面を流れる花を拾おうとして転覆。ほかの全員は川岸に泳ぎつくのだが、ブーデュはそのまま下流に流れていってトンズラし、道ばたのカカシの服に着替えて、ふたたび浮浪者として空と陸との間の生活に戻ると、そういう映画である。
異世界からやってきた侵入者を描くという点では、そこらへんのSFよりも的確だし、そのマレビトとの摩擦が、結局は善き人々のご都合主義に隠された「内なるブーデュ」をもあぶり出してしまうわけで、この映画を構図としてとらえると、きれいな構図が描けるのだろうけれど、そんなことをしても仕方ないのでやめるとして...。
実際のところ、これをおおらかさとか自由さと結びつけて鑑賞できる人がうらやましい。むしろそれは、ブーデュではなくレスタンゴワの親父に捧げられるべき言葉のように思う。ちょっとしたたかなおおらかさであり、自由ではあるけどね。