セミドロップの頃
初めて買ってもらった自転車は、22インチで小学2年生だった。親にねだり、買ってもらうことが決まった時点で、私はまだ自転車に乗れず、友人の協力を得て小学校のグラウンドで特訓を開始した。
家が米屋をやっているその友人は、後にちょっとグレて、なんとなく疎遠になったのだが、基本的にきわめていいやつであり、米の配達にも使う大きな26インチの実用車を三角乗りで乗り回すほどの男だった。
彼が後から荷台を押さえ、私がまたがってペダルを漕いで発進するわけだが、今、思い出すだけで、グラウンドの隅にあった竹のハントウ棒の林に二度突っ込み、バレーボールのネットを張るための木製の太い柱にぶつかって腰骨あたりを腫らし、最後に、二宮金次郎の銅像に激突して、もうやめようということになった。
ゴビ砂漠のごとく広大なグラウンドで、なぜわざわざそのようなものに突っ込んでいくのか、友人は不思議がっていたが、自分だって謎だ。要するにまあ、そのような子供だったのだろう。
22インチの自転車は、軽快車といった。対する概念としては実用車である。あの頃、自転車には二種類しかなかったのだ。黒くて重くて、頑丈な荷台がついている(そしておそらく超ロングホイールベースの)実用車に対して、軽快車は自転車で移動することを目的とし、また楽しむためのもので、当時、出始めていた言葉でいえばレジャー用ということにでもなるのだろう。
軽快車を買う。ということだけで、なんだかうれしいような時代であり、事実、私はうれしく、買ってくれた父もうれしそうであった。この言葉には、時代が目に見えて豊かになっていったあの頃の、なにがしかの高揚感のようなものが、ちょっと感じられるような気がする。
その後、24インチをはさんで、小学5年生の頃に、26インチの4段変速を買ってもらった。赤いフレームのこの自転車は、当時流行しつつあったセミドロップハンドルではなく、珍しい一文字ハンドルであり、当時の最高級であった5段変速ではなく4段変速であり、しかも中古であった。
中古ではあるにしても顔見知りの自転車屋さんが、赤い顔をして一生懸命整備してくれ、「これはモノはいいよ」という確信を込めた言葉が妙に胸に響き、なんだか非常に良い買い物をしたような気になったのを覚えている。そして26インチに乗るということは、子供が少年になるための通過儀礼のようなものでもあった。万博の翌年の、1971年のことだ。あの頃はまったく、時代があっという間に変っていった。
あっという間に変る時代とともに、私はあっという間に大きくなり、中学生になるとブリヂストンのセミドロップハンドル、5段変速という、時代の象徴のような自転車を手に入れた。方向指示器がフラッシャーになっている超豪華な自転車のブームが一段落しており(ブリヂストンのヤングウェイ・パルスがスターだった)、というか私はそれを素通りして、ぐっとシンプルな自転車だった。
しばらくそれに乗っていたのだが、あの頃、少年には2種類いた。自転車を改造する少年と、しない少年だ。私はなぜか改造少年の方であり、まずハンドルをドロップハンドルに換えた。次いで、ディレーラーをシマノのちょっといいやつにして、5段変速を10段変速にし、変速レバーも変更。最後にリアキャリアを外して、フロントバッグをつけると、ちょっとしたランドナーみたいな自転車が出来上がった。色は黒のままだったけどね。
タイヤは26インチ 1と3/8というサイズで、これが鉄板の標準。高級車のスポルティーフで27インチ1と1/4、最高に尖っているやつで27インチ1と1/8というのがあったけど、実車は見たこともなかった。フレームはクロモリが最高級で、次いでハイテン鋼。私のはただのスチールだったはずだ。
ブリヂストンのロードマンという、基本ユニットに自分でパーツを選んで作るセミオーダーみたいなやつがあり、これには憧れた。片倉シルク号や丸石エンペラーも夢の自転車だったし、当時、なぜかプジョーの自転車が出てきて、そんなに高級路線ではなかったけれど、もうフランスというだけでとろけそうだった。何しろ、自転車といえばランドナーであり、ランドナーといえばフランスだったのだ。
ロードレーサーもあるにはあったけれど、チューブラータイヤという特殊なタイヤで、とにかく長距離を走ると日に2度はパンクするという噂だった。パンクのたびに新しいタイヤを特殊なセメントでリムに貼り付けることになり、それほどデリケートであるとともに、信じられないような値段がついており、なおかつ近所の自転車屋でそれを扱っている店は皆無だったので、夢にすらならなかった。
セミドロップハンドルの時代を回顧しようとしたのだが、ふり返ってみると、私自身はセミドロップが全盛を迎える直前に一文字ハンドルを買い、子供自転車史上最大のバブル時代は素通りし、シンプルなセミドロップを買ったかと思ったら、すぐにドロップに換装してしまったので、時代としての濃厚な思い出はあるものの、セミドロップ自体にそんなに乗っていないのだった。
そもそも、なぜセミドロップというものが流行したかというと、あれは学校がドロップハンドルを禁止したからであるといわれている。いわくドロップハンドルは前傾がきついので、周囲が見えなくて危険である。いわくドロップハンドルはスピードが出るので危険である。いわくドロップハンドルは特殊なレース用のハンドルであるので通学用には必要ではない...。
すべて間違いであり、言いがかりもいいところであり、このような不条理を子供に無理やり納得させるようでは、日本の教育はろくなことにはならないと思うのだが、私は当時から学校や大人の言うことを聞くような子供ではなかったので、問題なくちゃんと大人になった。
それに、教育というのは子供が発狂しない程度に精神的圧力をかけることである、という説もあるくらいなので(実感として本当のことだと思う)、もともと、不条理なものなのだ。
それをかわして、裏道をいくためにセミドロップハンドルというものが流行ったのだとすれば、それはもう大人と子供のなれ合いの結果であって、あの不思議な形はドロップハンドルが理不尽な抑圧で歪められたものだともいえないこともない。まあ、当時はそんなことに気づきもしなかった。
高校時代、この黒いランドナーもどきに乗って屋久島に行き、鹿児島湾を一周し、霧島に登り、九州を一周しようとして途中で帰ってきたり、いろいろ楽しかったのだが、私はやがて原付少年となり、続く3年間に3台の原付を乗り継ぐことになる。あの多様で面白かった原付の時代というのも、すでにとっくに過去の話になってしまった。
コメント
僕もブリジストンのセミドロップハンドルに乗っていました。
ウインカーとか、速度計と距離計がライトと一体になったフロントとか、そういったブームが収束する頃です。中学に入学して自転車通学するのに買ってもらったのでした。
ブリジストンの自転車って、ちょっと他のメーカーと違う工夫があって、フロントがオーバルギアでリアはもの凄くでっかいギアを装着してましたね。あと、リアブレーキがディスクでした。
セミドロップって裏返しに装着すると、軽快車みたいになるって知ってました? 僕の自転車はそうやって売られていました。ハンドルで自転車のイメージって随分変わるので、メーカーもそれを狙ったんじゃないでしょうか?
こっちの方のガキどもは、好んでママチャリです。
Posted by しん at 2010年4月10日 08:43
しんさん
そうだ、オーバルギアのことを書かないといけなかった。あれは、ほんとにいいものだったのかどうかわかりませんが、妙にひきつけるものがありましたね。
Posted by JUN at 2010年4月10日 17:35
高校入学で買ってもらったのがブリジストンのオーバルギアーでしたね。昭和43年。
足に負担がかかりにくいというフレコミでしたが・・・。
よくチェーンが外れました。
空気入れも装備されていましたけど使わなかったです。
その代わり車のバッテリーとCBの無線機が付いていて、長いアンテナが目立ちました(^^;
5年乗って新潟に持って行きましたが、一ヶ月で盗まれたか信濃川に捨てられたか??
横田めぐみさんが拉致される少し前の頃でした。
Posted by 秋山 at 2010年4月11日 18:52
秋山さん
トランシーバーつきですか。近所でも見たことなかったです。1968年ってメキシコオリンピックの年ですね。その時代、トランシーバーはものすごいハイテクなおもちゃだったことは、何となく覚えています。
1970年頃、うちにあったのは27Mhz帯のものだったと思いますが、タクシー無線が聞こえてきたりしました。
Posted by JUN at 2010年4月11日 23:44
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