2009年9月 7日

映画>の・ようなもの

『の・ようなもの』(森田芳光監督/1981)。

森田芳光という名を聞くと、映画界の若き旗手といったようなフレーズが浮かんでしまうのだが、あれから、もう30年近い月日が経った。長く映画音痴だったぼくは、もちろんこの作品もリアルタイムでは観ていない。

何か非常に新しい時代の作品のような気がしてしまうのは、社会人になって初めて勤めた小さな広告代理店というか、タウン誌編集部というか、まさに「の・ような」会社で出していた雑誌の映画評で紹介されていたということもある。それは1984年のことで、あれから、ぼくの映画時計は止っていた。

この作品が、落語の二つ目さんの話だとは知らなかった。この二つ目さんが、ひどいなまりがあって、落語もめちゃくちゃ下手なのだが、素直でいい性格である。入船亭扇橋の師匠も、そこを見越して「お前、新作をやったらどうだ」と勧めてくれるくらいなので、いずれは、どうにかなっていくのだろう。

何かになろうとしているんだけど、まだ何ものでもない。というのは、青春の基本形であると思う。ここに登場する人物たちは、まだ何かになろうという了見があるからいい方で、何になったらいいのかわからないで、そこらをうろうろしているのも、あの頃は大勢いた。

さらに加えると、なんとなくこんなものになりたいのだが、「なる」にはどうやっていいのかわからないで、そこらをうろうろする。というのも、70年代の青春の基本形であっただろう。ぼくは、あわよくば詩人か音楽評論家になろうかと思っていたし、同じような意味では、ギタリスト、フォーク歌手、推理小説家、ジャズピアニストの卵が(卵といっても、それがほんとに卵かどうかはわからないのだが)、ぼくの周りにもいた。夢を語らないので、何の卵かわからないのもいた。

フォーク歌手とジャズピアニストは、一人ずつその通りになった。推理小説家は、あいかわらず数千冊の本に埋もれて暮しているようだけど、書き手というより読み手になったようだ。詩人は、編集だかWEBだかなんだか、よくわかんないことをやっている、よくわかんないものになった。

まあ、実のところ、何ものかに「なる」のはいいとして、問題はそれがゴールではなくて、ようやくスタート地点だということを、今の自分は知っているわけだけれど、そのスタート地点がはるかに遠いものであったことも、当時の実感ではあった。

今なら、ニートとかフリーターという、はなはだサゲスミを込めた言葉で呼ばれてしまうにちがいない。馬鹿野郎。である。ニートってのはな、青春ってことなんだわ。世の中に執行猶予を与えられているうちにだな、じたばた、じたばた、すればいいんだわ。へたに急いで落ち着いちゃうと、夢もみないまま時間だけ過ぎちゃうぜ。

などと、ひどく酔っぱらった自分がここにいて、うろうろしてる若い衆が目の前にいる状況であれば、こんなことをほざいてしまうかもしれない。今現在だって世間様の常識からすれば、「の・ような」連中と何も変わらない。

ちなみに、ニートというのは「教育を受けておらず、労働をしておらず、職業訓練もしていない」ことを指すそうだが、ひとつ忘れている。

「教育を受けておらず、労働をしておらず、職業訓練もしていない。だが、夢はある。それに近づこうとしている」こういう連中は、何と呼ぶのかね。今は泥にまみれていても、そいつが宝石ならいずれ自分で光りだす。それにたいてい、宝石というのは泥の中から出てくるものなのだ。

トラックバックURL

このエントリーのトラックバックURL:
http://www.fishing-forum.org/cgi-bin/mt/mt-tb.cgi/169

コメントする

(初めてのコメントの時は、コメントが表示されるためにこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまでコメントは表示されませんのでしばらくお待ちください)