深夜のスーパーにて
ずっと前、友人のしんさんが「最近はしょっちゅう泣く」というようなことを言っていたけれど、人間、そこそこ長く生きていると、堆積してきた過去のもろもろが、突然よみがえって感情にスイッチが入ることがあるんだと思う。
それは寄る年ナミで涙もろくなるとか、そういうこととは別に、若くてむやみに元気で、怖いモノ知らずだった頃は(今でもけっこう怖いモノ知らずではあるが)、つまり過去の堆積が少ないわけで、よみがえるもの自体が少ないと、そういう風に理解している。
数ヶ月前だったか、深夜、スーパーで買い物をしていて、インスタントラーメン売り場の前に来た時に、突然、どわーっと過去のことがよみがえり、今、ここにこうしてあることのありがたさとないまぜになって、涙がホーハイとしてあふれたことがあった。どうも、その何年か前にも、やはりインスタントラーメン売り場で、同様のことがあったように思う。
ぼくの場合は、大学生の頃に自営業だった父をなくしたことで、自分を取り巻く環境のすべてが変わり、それから、自分自身の人格に芯のようなものが入ったということがあった。虎は死して、子に激辛担々麺よりも辛い試練を課したもうた。おかげで、今日、どうにか人間のような顔をして生きているわけなのだが、ドラマではないので、そうそう一本道でうまくいくわけはない。
まあ、こんなことは誰にもあることで、ことさら書くようなことでもないし、自分自身でもほとんどのことをすっかり忘れてしまってもいるのだけど、やはり心のどこかには残っていて、このように突然、場所もわきまえずに、湧き上がってくることがある。それが、なぜかインスタントラーメン売り場なのだった。あれすら、買えなかったことがあったからな。
結婚してからもある。調べてみたら、平成4年だそうなのだけど、モスバーガーでモスチキンなるものが発売された。当時210円。その頃は3人家族だったのだが、その日、ぼくは新発売のモスチキンを家族に買って帰るつもりが3本買うことができず、2本だけ求めて帰った。それを、オクサンとまだ幼稚園くらいの長女が大変よろこんだと、そういうことがあった。
だから、今でも、モスチキンを買う時には、ちょっと気合いが入る。ぼくにとっては神聖なるモスチキンなのであって、今や1本240円となったそれを、しみじみとうめえなあと思いながら、食べる。このうまさってものは、若い衆にはわかるまい。なのだ。
過去がそれなりに堆積してくると、人生の小さなことにも感動したりする。ただ、過去というのは怖いものだから、ふだんは忘れていなくてはならない。思い出すのは、いいことだけでいい。その都度に、ほんわかと感謝できることであれば、もっといい。
コメント
思い出し笑いというのはそこそこポピュラーですけど、思い出し泣きっていうのはそうは見かけませんね(^^;)。
僕の場合は外部から信号が入ったときに反応するわけで、それ程深く関わったことのない人の葬儀でも、はたまた朝ドラでもです。
問題はそれが少しずつアナフィラキシー的になってきているのです。ぽろぽろボロボロと過剰に流れ続ける涙。これは蓄積された物が溢れてきているわけではないですよね?
いかん。JUNさんのこの文読んでも涙が出ています(^^;)。
モスチキンを自由に買えるようになるということは、そのぶん不自由から解放されたということですね。若いもんよりおっさんは自由なんじゃ。
Posted by しん at 2009年9月 6日 04:12
しんさん
アナフィラキシーというよりも、感性が鋭くなったということですよ^^。人の痛みがわかるようになったというか。ぼくも、もしバラエティに出たら、桂ざこばよりも泣くと思うな。
人は何のために生きるのか。生きて努力をするのか。志とか、愛とか、貢献とか、そのような話はさておいて、目の前の目的は、そしてぎりぎりの本音としては、ぼくの場合、自由になることでした。初手は、無我夢中で、とにかく自分が選んだ仕事をやり遂げることしか考えられなかったけれど。
若い衆は、たいてい、デフォルトとして不自由な中にいて、それはむしろ天からの贈りもののような気がしています。
Posted by JUN at 2009年9月 6日 05:56
私は、チャーリーを一生懸命漕いでると、たまにスイッチが入ります。
子供の頃、亡くなった弟と二人して良くバス釣りにチャーリーで通ってて、坂道を必死に漕いでも幼い弟は付いてこれず、頭ごなしに怒鳴ってた記憶がよみがえってくるのですが、こうやって書いてても涙ぐんできます。(;.;)
あとは24時間テレビ。
今まではお涙ちょうだい・・・てきな番組進行がいかにもイヤでバカバカしく思ってたり、チャリティーなら出演料も寄付したら・・とかイヤらしく考えたりしてましたど、今年久しぶりにまじまじと見たらウァンウァン泣いてしまいました。^^; 術中に嵌ってしまった。
Posted by サルモサラー at 2009年9月 6日 08:26
ワタシは高速道で新潟のある場所を通過すると、いつもこの曲を想いだして泣いています。
http://www.youtube.com/watch?v=YzPLzyxIAaI
今年は富山に何度も鮎釣りに行ったので泣きっぱなしです。
Posted by 秋山 at 2009年9月 6日 21:09
サルモサラーさん
釣り師は、水辺にも思い出がたくさんありますね。子供の頃、おぼれかけた川のそばを通った時に、一緒にいた幼い妹が持っていた赤い小さなおもちゃのバケツのことを、妙に鮮烈に思い出したりしました。
あと、父に釣りに連れていってもらった湖の水面に、西日が照り返して、金色に輝いていたことだとか。あの金色の波の記憶は、最後まで残るんだろうなあ。
Posted by JUN at 2009年9月 6日 23:19
秋山さん
「好きだった人」ですか。昔、ギターを弾いてよく歌ってましたけど、思い出も人それぞれですね。場所に反応する、極私的感傷地点というのは、今ちょっと思いつかないのですけど、考えてみれば、私のふるさとは開発と埋め立てで、過去の記憶ごと、きれいさっぱり土砂の下になってしまったので、それもあるのかも。
絵が描ければなあと思うことがあります。記憶の中のふるさとを残すには、絵しかないのですが。
Posted by JUN at 2009年9月 6日 23:24
コメントする
(初めてのコメントの時は、コメントが表示されるためにこのブログのオーナーの承認が必要になることがあります。承認されるまでコメントは表示されませんのでしばらくお待ちください)