映画>吾輩は猫である
『吾輩は猫である』(市川崑監督/1975 )。
仕事がラストスパートに入っている状況であるのに、風邪がぶり返してしまい、気息エンエンの姿でソファに横たわっていた。ただ横たわっているだけでは、ほんとに風邪に埋没してしまいそうだったので、気力をふりしぼって録画してあったこの映画をテレビで観る。別にこんなところで根性を出さなくても、よさそうなものではあるけど。
苦沙弥先生は仲代達矢、迷亭が伊丹十三。そして監督が市川崑とくれば、そこそこの映画にはなるはずであり、実際、そこそこの映画ではあるのだけど、あの漱石特有の日本語の語感など、原作を読んでいればこその味わいであるわけで、そうでない人が、なんだか面白そうな映画だと思って観ても、入り込めないかもしれない。そういう意味では、作り手にとって、かなりむずかしい映画だったのではないか。
ぼくは小学生の頃からの「猫」ファンなので、懐かしさとともに観た。原作とちがうのは、猫が一人称で語る部分は少なくて、猫の台詞の大半を迷亭が語っている。それはそうだろう。あんなに能弁な猫を映画で撮るのはむずかしい。
画面は全体に寒色系というか、なんだか青っぽい。1975年という、社会的にも映画的にも出口が見えない(というか映画界は、ほかの何にもましてどん底なんだけど)時代の空気が、こんなところにも現れているのだろうか。当時、ぼくも出口の見えない田舎の高校生だった。
漱石の原作ものは、『それから』『三四郎』『坊っちゃん』『心』とけっこうある。最新作は85年に森田芳光が撮った『それから』。仕事が一段落したら、観てみようと思う。
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