国力の測り方
国力というのは、お金や戦車の数じゃなくて、無駄なことを一所懸命やってる個人としての馬鹿がどのくらいいるかが勝負だ。
たとえば北朝鮮には、あんまり個人的な馬鹿がいそうにない。つまりその国の現時的文化というのは社会が許容した無駄の量のことだ。これは人の生存や社会の存続に関わる多様性の温床となることにおいてのみ価値があり、それが直接役立つかどうかは無視されてよい。
なにがしかの方向に純化してしまった国家が早晩滅びることは歴史が証明しているが、それを救うのが社会的文化的多様性であり、その基盤にあるのがあらゆる無駄と、それを実行する馬鹿である。この無駄と馬鹿を、かつてこの国では数寄と呼んだ。
私も、社会を支える馬鹿になりたい。
“無駄の美学”ですな。
“美学”とは“文化”で有り、それは“国力”と成るでしょう。
しかし、オイラの人生“無駄”だらけで(^^;、“美学”の部分が“微々”(^◇^;)
JUNさんの言う「社会を支える馬鹿」、オイラもなりたい。
Kazoo さん>
これにコメントがつくとは思いませんでした(^_^;)。
たまたま、『独裁者』をその直後に観たわけですが、
チャップリンが、愛とか自由とかいっていたものを、
ぼくは「馬鹿」と置き換えてみたいと思います(^_^;)。