本>方丈記私記
浸るような読書をしなくなって久しいのだが、寝しなに何かの活字がないと、わなわなと全身にフルエがくるという就寝時慢性活字中毒症が治ったわけではないので、そこらのものを手当たり次第に読むことは読む。
こんな風にあてどない読書なのだけれど、時々、いい本に出会う。堀田善衛『方丈記私記』。方丈記を読み返すついでに買っておいたもので、案外とよかった。
案外と、と控えめに書いているのは、ぼくがもともと堀田善衛が好きであり、なかでも18かそこらの頃に読んだ『若き日の詩人たちの肖像』には、相当いかれてしまった口でもあり、あの本を通して国家であるとか、政治であるとか、あるいはそうしたモノゴトと文学や演劇というものが、ぎりぎりにせめぎあったある時代のことであるとか、また、そうした時代に青春を生きるということがどういうことであったか、などということを、憧憬とともに一種の寒気をもって読んだ記憶が、身に刻まれている気配がある。
今の時代に、たとえば大学生がこれを読んで、堀田の思索がどれほどの皮膚感覚をもって伝わるのかというと、どうも頼りない気もするし、あの文体の素晴らしさはどうかというと、さらにいっそう頼りない気もするわけで、自分としては圧倒的に良かったと書きたいのだが、そうしたことを配慮して少し控えめにしてみたのだが、いずれにしてもいらぬ世話というものであろう。
鴨長明の『方丈記』については、世をすねて3m四方の庵にこもって人にも会わず、愚痴ばかり言っている中世京都のヒトが書いたペシミスティックな随筆、というような皮相的な評があったり、養和前後の大地震や大飢饉、京の半分を焼いた大火事などの大災害に見舞われた若き日の体験から生まれた、現代にもつながる日本人の深層としての無常観にみちた文学といった、さらにきわめて皮相的な評があったりして、たいていは、そのどちらか、あるいは両者がいりまじった視点から、このエッセイを読むことになるのだろうと思うのだけれど、ワタシとしてはありとあらゆる天災、人災、政災といったものによって京が破壊され、人が死にゆくさまの、異常なほどの具体性、即物性と、その文体がもたらす一種の破壊的な爽快感をもって読んでいたことに気づいた。古典の読み方としては、あまり行儀が良いものではないにしても、そうしたやむにやまれぬ文を読むこと自体の快感というものが、やはりどこかにあると思う。
たとえば、ということと、方丈記ってどんなんだっけ。という方のために、冒頭部を抜き出しておく。
行く川のながれは絶えずして、しかも本の水にあらず。
よどみに浮ぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとゞまることなし。
世の中にある人とすみかと、またかくの如し。玉しきの都の中に
むねをならべ、いらかをあらそへる、たかきいやしき人のすまひは、
代々を經て盡きせぬものなれど、これをまことかと尋ぬれば、
昔ありし家はまれなり。或はこぞ破れてことしは造り、
あるは大家ほろびて小家となる。住む人もこれにおなじ。
所もかはらず、人も多かれど、いにしへ見し人は、
二三十人が中に、わづかにひとりふたりなり。
あしたに死し、ゆふべに生るゝならひ、たゞ水の泡にぞ似たりける。
知らず、生れ死ぬる人、いづかたより來りて、いづかたへか去る。
又知らず、かりのやどり、誰が爲に心を惱まし、
何によりてか目をよろこばしむる。
そのあるじとすみかと、無常をあらそひ去るさま、
いはゞ朝顏の露にことならず。
或は露おちて花のこれり。のこるといへども朝日に枯れぬ。
或は花はしぼみて、露なほ消えず。
消えずといへども、ゆふべを待つことなし。
いくら無常といっても、冒頭でここまでガツンと無常をやられてしまうと、むしろ爽快ですらあるわけで、この後、おそらく堀田善衛の指摘通りに、長明という人は火事があれば火事場へ行き、人死にがあれば人死にを見に行ったにちがいないと思われる具体的、即物的描写でもって、あらゆる京のナンギを書き連ねていく。
そして、どういうものかこの方丈記の文章はどこか透明であって、やたらに内容が悲惨であるわりには、脅かしもなければデモーニッシュなところもなく、さらに時には笑いだしたくなるようなユーモアさえある。それをユーモアとニホン語のカタカナで書くのがおそらく適切ではないことは、この言葉がたいていは退屈な状況にのみ用いられる言葉であるからなのだが、残念ながらほかに代わる言葉を知らない。滑稽でもなければ諧謔でもなく、笑いといったところで、それは眼前にあるものが片端から跡形も消えていく時にこみあげてくる、笑うよりほかにないではないかといったものであるのかもしれない。
あるいは、その描写に余計な入れごとや思い入れがなく、きわめて簡潔で即物的であるがために、今眼前にあったものが、次の瞬間には跡形もなく消え失せるといったことが文学的体験として、あるいはこの随筆を貫くひとつの律動としてあるために、そこに無から生まれる笑いの衝動なようなものが起こることがある、ように思う、といったらよいだろうか。
悲惨も突き抜けてしまうと、澄明さをたたえることがあり、それすらも突き抜けてしまうと、時に滑稽ですらあるということでもあるのだろう。またhumorを字義通り人間性と訳してみれば、人間というものにも、ぎりぎりのところでどこかに救いがあるのではないかと、そういうことも思えてくるわけである。
堀田善衛は、戦争中の体験を重ねながら方丈記を読み込んでいく。というより、自分の命や国家の行く先といったものがきわめて悲観的なものであったあの時代に、集中的に方丈記や明月記、玉葉といったものを読んでいたらしい。そしてその時代は、『若き日の詩人たちの肖像』に描かれた、あの時代のことでもある。
この本で、「無常の政治化」という言葉を知る。戦争にしろ、恐慌にしろ、自国あるいは他国における虐殺にしろ、なべて政治がやってしまったことについて、異を唱え、徹底的に責を問うことをわれわれはしない。むしろ、「なかったことにする」心の方向性というものが、民族の心根の奥深くに染みついてしまっている。たとえば、「ゆきゆきて神軍」の奥崎謙三の怪物性は、それに徹底的に反し、奥崎が異様なほど自立した人間であるからなのだろう。
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