ラジオ・デイズ
ラジオで育った最後の世代、といっていいのだろうと思う。
小学4年生の時、小さなヤケドをいくつかこしらえながら半田ゴテをふるって作った鉱石ラジオ。電池もないのに、なんで聞えるんだと今でも不思議は不思議なのだが、そのイヤホンだけで聴くことができたマッチ箱くらいのラジオで、落合恵子の深夜放送を聴いたのが、あれはたぶん、大人の世界への入り口だった。
中学生になると、あきらかに、世のすべての新しきものは、AMラジオからやってくるのだということに気づいていた。AMラジオは、音楽も、風俗も、文化も、ギャグも、その他あらゆるものごとの実験場であり、そこですっかり認知されて、だいぶ手垢がついたものが、それでも、たぶん半年後くらいのことではあるのだけれど、ようやくテレビに登場した。半年で、世の中ががらりと音をたてて変わっていった時代。
ラジオで生まれたものがテレビに出てくる確率は、5分の1か、10分の1か。つまり、面白いものごとの大半は、ラジオで始まり、ラジオで終り、テレビには残りカスしかなかった。その頃には、こちらは『次』に向かい、『次』に感激し、『次』に笑いころげていたのだから、あの頃、ラジオを聴いていない友だちとは話ができなかった。これはもう、どうしようもない時差。どうしようもない情報量の差。
それにしても、と、今さらに思う。
深夜、ラジオを聴いている、というだけで、語り手とリスナーが、あるいは不特定無数のリスナー同士が、そこはかとなく、しかしどこか深いところで、つながっていたような気になっていたのは、あれはいったい、何だったのだろう。
あの不思議な連帯感が、深夜放送を底支えした力だったことは疑いもないのだが、それは単に、人が寝ている時間帯に起きているという、一種の異常な状況を共有していることを超えたものであったような気がしている。それは、今だにうまく説明がつかない。
日立ミュージック・イン・ハイフォニックからコッキー・ポップ、午前1時になればオールナイト・ニッポン、あるいはセイ・ヤング、あるいはパックイン・ミュージック、たまに歌うヘッドライトまで。東京の、小さなスタジオで、1本のマイクを前に語る1人の語り手がいて、その声に日本中のリスナーが耳と心を傾ける。
おそらく、今となっては、こうした状況自体が夢なのだろうが、中学時代のぼくの夢のひとつは、やはりDJになることだった。できることなら、大石悟郎になりたかった。のかもしれない。
大石悟郎にはなれなかったけれど、後年、FM福岡というラジオ局で、二つも番組を持たせてもらった。いや、それも福岡のロックバンドを発掘することをテーマにした番組だったから、分野は異なるにしても、見事にかなったのかもしれない。同じ時期に、福岡や九州という単位ではあったにしても、ポプコンなどのアマチュアコンテストの審査員もさせてもらったのだから、どうも願いは通じているような気はする。
しかし、あれで終りなのだろうか。ラジオの日々の...。
コメント
JUNさんのお年はハッキリとは存じ上げて無かったと思いますが、S42生まれの私でも、小学生~中学生前半はAMラジオ世代ですよ。世代・・といってもメインは当然TVですが、まだまだ学校でもラジオの番組内容の話題が豊富であった・・ということなんですが。(^^)
まさしくヤンタン、オールナイトニッポン世代であったのですが、今でも心に残ってるのはヤンタンの方ですね。小学校のころは何をおいても面白いコーナーがあった次の日はその話題で教室が持ちきりになるほどでした。今、思い出しても楽しかったなぁ・・・。(^^) 水曜日の原田伸郎の一日流行語なんかは今でも覚えてるし、金曜日の谷村新司のお色気も小学生ながらに楽しみでした。
中学も後半になると色気づいてきて、個人的にはFMの方へ半分流れていきましたが、ヤンタンは高校ぐらいまでは聞いていたと思います。
FMはレコードをろくに買えなかったので殆どはエアチェックでテープに録音するためでしたけど。^^;
Posted by サルモサラー at 2009年4月27日 08:46
ワタシは中3の時の土居まさるからでした。
真夜中のリクエストコーナーという番組でしたね。
チャイコフスキーをリクエストしたら時間一杯流してくれました。
バイタリスという整髪料がスポンサーだった「フォークビレッジ」というのもありました。
広川たえこが好きでした。
その後に糸井さんとか落合恵子の番組が誕生して、
高校になると東海大学の試験局だったFM東海の「ジェットストリーム」ですね。
大学時代は新潟だったのでジェットストリームが聞けなくて・・・。
日本海側なので朝鮮放送が強くて「イムジン河」なんか聞こえたこともありました。
夏休みに秋葉原で一番大きな素子のFMアンテナを買ってアパートの屋根に付けました。
深夜12時に300km彼方からフェージングとともに聞こえてきた城たくやの声に泣いた事があります。
とめどないですね。
Posted by 秋山 at 2009年4月27日 12:41
そうそう、ジェットストリームも良く聞いていました。
あの響きを思い出すと切ないきもちになりますね。(^^)
あとは「夜のドラマハウス」。
男女二人だけで勿論声だけの短編ドラマでしたが
確か毎日放送ではヤンタンの直前にやってましたので
毎日聞いてましたっけ。(^^)
Posted by サルモサラー at 2009年4月27日 19:18
そうですね。あの妙な深夜の連帯感というか、時間を共有する感覚はなんだったんでしょうね?
今は情報発信チャンネルが多様化しすぎているし、価値観も多様化というか、あまりにバラバラになりすぎてしまっていて、あの感覚はなかなか得られないでしょうね。
DJに読まれた一枚のハガキから、共感したり、反論したり、話が広がったり、ネットのBBSの世界に似てなくもないけど、流れる空気は違うと思います。
ナッチャコパックの投稿を集めた「もうひとつの別の広場」は愛読書でした。
Posted by ひろすけ at 2009年4月27日 23:06
皆さん、それぞれに…ですね。
ジェットストリームは、鹿児島に居た頃には聴いたことがなくて、何しろ民放FMというものが当時、鹿児島にはなくて、FMといえば「若いこだま」でありました。葉書を出したら、DJの大貫憲章氏から電話がかかってきて、驚いたことがありました。
そういえば、友だち三人くらいで、深夜放送に葉書を出すのを競っていて、けっこう読まれたりもして、ものを書く楽しさを知ったも、どうもあれがきっかけだったような気もします。
あと、ヤンタンがすごかったという話は、よく聞くのですが、九州だと受信できず、どうしても東京発の番組になりました。オールナイト・ニッポンでいうと、おそらく所ジョージくらいまでが、かろうじて黄金期で、ちょうどコンビニが拡大するのに反比例するように、深夜放送はしぼんでいったように思います。
Posted by JUN at 2009年4月28日 00:06
もうひとつの別の広場 僕も持ってました。
大学生になった頃だったかな、たけしのオールナイトニッポンが始まったのは。滅茶苦茶面白かったけど、もうあれは深夜放送じゃありませんでした。
僕にとっての深夜放送は、中学時代に聞いていたものですね。辛うじて聴き取れる放送はTBSでした。パックインです。
ソニーがスカイセンサーっていうラジオを出して、欲しかったのを憶えています。
Posted by しん at 2009年4月28日 07:20
>しんさん
スカイセンサー、持ってました。というか今でもあります^^;
なぜかFMは鳴るけど、AMと短波は入りません(ーー;)
こんなサイトもあるんですね。
http://www003.upp.so-net.ne.jp/tokita/skysensor/index.html
今だったらこんな高いラジオ誰が買うか!でしょうね^^;
Posted by ひろすけ at 2009年4月28日 20:40
スカイセンサー5800、こないだまであったんだけど、どっかいっちゃったなあ。
しんさんが書いてらしたように、面白ければ深夜放送というわけではないみたいですね。ナイナイのオールナイト・ニッポンとかいわれてもなあ。
一番ラジオに熱中してた頃のリグ(^_^;)は、東芝の純ラジオの黒獅子号(社会人野球優勝記念らしい)→SONYのCF-1765でした。
Posted by JUN at 2009年4月28日 22:40
JUNさんなら分かると思いますけど、田舎少年にとって高感度ラジオっていうのはヒジョーに重要で、言ってみればインフラです。
ひろすけさんの環境なら、ゲルマニウムラジオでもバンバン受信できたんじゃないですか? なのにそれなのにスカイセンサーは贅沢です。だけど今でも持ってる物持ちの良さで許す(^^;)。
ラジオの向きを色々変えて、一番良く入る方向に向けるのです。それでラジオの裏を触ると、体がアンテナの役割をするのかちょびっとだけ聞こえが良くなるのです。だけどずっとラジオを触っているわけにもいかず、ニクロム線をセロテープで貼り付けていました。天気によって殆ど聴き取れないような日は哀しかった。
あれってアンテナ立てれば良く聞こえたんだろうか?
共感があったんですね、きっとあの頃の深夜放送には。共有って言った方が近いのかな。そこからリスナー参加のバラエティーに移行していったんですね。それは我々にとって深夜放送ではないと・・。
パソ通だって語り出したらそりゃ思い出がいっぱい(^^;)。
Posted by しん at 2009年4月29日 05:33
ラジオの話しには、皆さん燃えてますね~。かく言う僕もラジオ好きです。きっかけはJUNさん達と同じでゲルマニウムラジオ。作り方は小学校の図書館にあった「子供の科学」って雑誌でした。中学校に入った頃は、1球式の真空管ラジオを自作して聴いてました。
ただ、聴いてた放送局は皆さんとは違って、主にFENでしたね。厚木飛行場の近くに住んでいた為か、ゲルマニウムラジオでもクッキリと聴くことができました。DJの話しの意味は判らなかったけど、TVの歌番組では聴くことの出来ない音楽が聴けて楽しかった。大人ぶりたっかたのも、あったのだとは思います。
深夜放送は、受験勉強のBGMとして聴いていたけど、あまり記憶に残っていません。印象に残っているのは30歳過ぎてから聴いた東京FMの「赤坂泰彦のミリオンナイツ」ですね。パソ通をパチパチやりながら聴いてました。
今でもラジオ好きで、オリンパスのラジオサーバーなんての買って、エアチェックしてます。もっとも、近頃は落語や講談を聞くことが多くなりました。歳かな~
Posted by じゅん坊 at 2009年4月29日 18:22
ワタシも中学の頃にはラジオ作っていました。
当時のアマチュア無線の試験には5球スーパーヘテロダインの受信回路図書けないと受かりませんでした。
コンセントにアンテナ線を突っ込んで(コンデンサーを介して)電線そのものをアンテナにしていました。
北京放送が高出力で敷地付近の木が振動して放送が聞こえるとか、FENの敷地境界の金網に触ると感電するとかいろいろなウワサもありましたっけ。
FMでステレオ放送が聴けるようになってからAMはほとんど聴かなくなりました。
その後は警察無線とか航空機の無線ですね。
女性管制官でセクシーな声の人がいたりして(^_^;
ラジオライフなんて雑誌は数年前まで定期購読していました。
Posted by 秋山 at 2009年4月30日 14:32
うーん。そうすると、あのCB無線のブームにもつながってしまうわけなのかな。
ぼくにも身に覚えがありまして、おとなしくハム免許をとればいいものを、27Mhz帯のダイポールアンテナ(幅が約5.5mになりますか)を自作して、部屋の窓から吊っていたりしました。
ソニーの500mWリグでも、こんなアンテナをつけるとちゃんと性能向上しまして、よく考えると、あれも違法ではありました。BCLに行かないで、CBに向かった子、けっこういましたね。なんか、あの電波の世界の魔力は特別なものがありました。
その後、突如としてパソコン通信でテキスト文章の魔力がクローズアップされたわけですが、今は何なのでしょうね。動画ってわけでもないだろうしなあ。
Posted by JUN at 2009年5月 2日 23:53
ワタシはオンキョー製でした。
当時はNECのものが主力で、その後ソニーのCB500が発売されました。
オンキョーのものは改造しやすかったのです。
もともと合法にするために色々デチューンしてありました。
外部アンテナを付けて、梅雨時になるとE層という電離層に反射させて山口県や島根県や宮崎県と0.5Wで交信出来ました。
アマチュア無線のライセンスは持っていましたがやっぱCBでしたね。
ちば3878というCBのコールサインも当時は郵政省から下りました。
いまは何でしょうね・・・。
Posted by 秋山@富山駅前ビジネスホテル at 2009年5月 3日 19:49
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