2009年3月 1日

映画>黄金狂時代

『黄金狂時代』(チャールズ・チャップリン監督/1925)。

この映画のレビューも3回目くらいになる。とにかくこの作品は、構成もギャグも完璧。最後まで笑い転げていればいいのだけれど、一方で高慢のもたらす残酷さ、無教養がもたらす残酷さを、あんなに端的に描いた作品もないと思う。つまり、人の優しさは、自省や謙虚さや教養の果実であるということ。

で、さんざんチャーリーをもて遊んだジョージアが、船の中で密航者と間違えられたチャーリーと偶然出会い、「警察には言わないで。船代は私が払うわ」という、そのラストシーン。結局、それほど深い意味はないはずのこの一言で、その時に実は金鉱を掘り当てて百万長者となっているチャーリーの夫人となる。

いくらなんでも、これは不自然だし、安易だなあと思っていたのだが、今回、ちょっと思うところがあった。

「警察には言わないで。船代は私が払うわ」という言葉自体は、とてもリアルで不自然ではない。金鉱町の狭い社会のつきあいの中でこそ残酷だったジョージアにしても、船に乗り、異世界へ旅立つ途上とすれば、突然目の前に現れた、昔の知り合いが警察に捕まるのを看過するわけにはいかない。

ここまでは、動かない。ただし、そこに「愛」があるかというと、たぶん、ノーだ。

ただし、と、もう一度重ねるのだが、食事をすっぽかし、チャーリーの純愛を、その純愛ゆえの滑稽さを、仲間と笑いころげていたジョージアが、恋人ジャックに同じ目に遭わされた時、人としての何かの階段をひとつ昇ったということはあるのかもしれない。

そのことによって、ジョージアはチャーリーの相手となる資格を得たのだ。魂の段階として。

だから、あのハッピーエンドが、むしろ二人の壮絶な物語の始まりを予感させるわけだけれど、おおむね、結婚というものは壮絶な物語の始まりなのだから、これでいいのだ。

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