2009年3月13日

映画>我が家の楽園

『我が家の楽園』(フランク・キャプラ監督/1939)。

映画をなかなか観ないのだが、映画にまつわる本はけっこう読んでいる。最近、山田宏一とか蓮見重彦なんかも読んだ。田中小実昌の映画のエッセイはとても好きだし、ドナルド・リチーの「黒澤明の映画」は、ここ1年くらい、ずっと枕元に置いてあったりする。

で、そういう人々と自分を比べてみた時に、決定的に異なるのは、洞察でも経験でも文章力でもなくて(いや、それは論外というべきだろうけど)、彼らが徹頭徹尾、映画好きであるということだ。

部屋のプロジェクターで映画を見始めて4年くらいになる。その間、好きな映画はいくつかできたけれど、「映画が好き」というのが、もうひとつわからないでいる。そもそも、彼らがいうところの「映画」が、何を指すのかも、よくわからないのだから、それを好きになれというのも無理な話なのだろう。

映画好きは、同じ映画を何度でも観る。たまに無茶苦茶な駄作を観てしまっても、それをなにがしかのコヤシにするか、ひそやかな微笑でやり過ごすくらいの度量も持っている。映画好きは、いそいそと映画館に出かけ、帰ってきたかと思うと、またいそいそと出かけていく。暗がりに輝くエクランの向うに、彼らはいったい何を見ているのだろう。非常に嫉妬を感じてしまうのだが、ワタシにはよくわからない。

大体、自分が実は、愚かなほどにマジメで堅苦しいニンゲンであるということを知ったのは、映画を見始めてからだ。何しろ、勉強のつもりでいるらしいのだ。だから、気に入った映画があっても、それを繰り返し観たい気持ちをおさえて、なんとか未見のやつにとりかかろうとする。なーにやってんだべ。と、賢い時のワタシは思う。

そういう戸惑いと、いわれのない、ほろ苦いような疎外感の中で、『我が家の楽園』を観た。フランク・キャプラは、談志が大好きな監督で、その影響で弟子の談春も志らくも好きだ。彼らの文章やインタビューの中にも、しょっちゅう出てくる。

いい映画だった。この底抜けの楽天主義。そうか、これはアメリカ人の古典落語みたいなものなのだろうな。

こういう作品を若き日に観ることが出来たら、誰だって映画好きになると思う。映画に対する揺るがぬ信頼は、こういう作品から生まれてくるのではないか。

エンドマークが出て、またすぐにDVDをスタートさせようとしたのは、この映画が初めてだった。

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コメント

僕も映画が好きです。学生時代程ではないけれど、月に2本程度はコンスタントに観に行っている。その程度には好きなのだけれど、JUNさんのようにプロジェクタを買おうとは思いません。
「映画は映画館で」ってのイイのですね。暗い空間に身を置いて銀幕に目を凝らすのがイイ。DVDも持ってはいるけど、家庭で見るなら小さなTVでもプロジェクタでも同じに感じてしまいます。家庭で観たのをリバイバル館で観ると、やっぱり映画館の方が感動する。
僕の場合、映画好きって言うより、あの異空間に身を置くのが好きなのかもしれません。

僕もじゅん坊さんと同じく映画館が一番ですね。
上演時間に合わせて足を運び、約2時間の間タバコも吸わず、携帯も切って、映画を観ることのみに集中するのはやっぱり家庭では難しいですしね。
DVDやオンエアで観てイマイチだった作品も、映画館で観たら良かったってことは僕もよくありますが、集中して観る環境も大事なんでしょうね。

やっぱり、ぼくが皆さんと決定的にちがうのは、映画館体験なんだろうなと思います。こればかりは、どうしようもない。多感な時期に入れるべきものを入れてこなかったということなのでしょう。

今でも、まだ映画館に行くということを、なかなか思いつかないですね。映画は、どこまでも時代のものなのだから、可能ならリアルタイムで観るのがいいに決まっているのですけどね。

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