2009年2月 4日

松下新平君のこと

昨日の参院本会議で、改革クラブの代表質問に立った松下新平議員に、野党から激しいヤジが飛び、それを麻生総理が「若手を伸ばそうとしない政党はだめだ」とたしなめた。という記事を読んだ。

なぜ改革クラブの議員に野党からヤジが飛ぶかというと、つまり、改革クラブ自体がいずれ自民党と合流するんだろうと目されているからで、つまり野党にとって改革クラブは野党でないということ。それはいいんだけど、去年の秋に旗揚げした改革クラブの理念というのを読んで驚いた。

●強い・明るい・誇りある日本をつくる為の改革
●北朝鮮による拉致被害者の救出
●スパイ防止法の制定
●防衛省の国防省への改名
●自衛隊の国軍への改名
●中選挙区制の復活
●男系万世一系護持の為の旧皇族の皇籍復帰
●現行憲法を破棄し自主憲法の制定
●外国人参政権反対
●人権擁護法案反対
●国籍法改悪反対

ここまでが、所属議員たちが「国家」というものをどう考えているかという、いわゆる政治家としての基本姿勢の部分なのだけれど、松下君は何をかぶれてしまっているのかな。というところ。アメリカの共和党でも、ここまでナショナリズムの色の濃い議員はむしろ少数なんではないか。これを読んで、積極的に票を入れたくなる人が、それが都市部であれ地方であれ、それほど多いとは思わない。つまり、コクミンの常識とは、だいぶ乖離してしまっているのではないか。

国防省に属する国軍とは、つまり防衛省に属する自衛隊と、どうちがうのか。今、日本の危機管理の危うさがいわれている中で、迅速な対応をどうとるのか、という、いわば防衛に関しての現場力の弱さへの危機感から、こういうことを言いだしたんだろうけれど、言葉だけ先走っても、たとえばシビリアンコントロールをどう担保するのか、コクミンの生命や財産を守るために、コクミンの生命や財産をどの程度まで犠牲にするのか、なんてことの煮詰めが、あの五人の議員の中で十分に行われているとは思えない。

その中で、こういう言葉だけが先走ることについて、政治家としてものすごいリスクを負ってしまっている。彼に一票を投じた者としては、はらはらしながら見守っている。

国家と国民のどちらが重いのか、というのは政治家の究極の選択。などというのは、議論として短絡がすぎるわけで、まず前提としては国民の方が重いに決まっているのだから(その国民に、皆さんは選ばれているわけで、国民の代表がそのまま国家の代表と勘違いしてはいけない)、その選択が議論に登らないようにする努力をしてもらうために(つまりそういう状況に陥ることを避けるために)、ぼくらは政治家を国会に送り込んでいる。敗戦後、政治の長い積み重ねで、日々、その政治が国際社会の中で洗練されていくことを、ぼくらは願っている。

そこへもってきて、その流れをわざわざ引き戻すような理念を持ち出す新党に、彼が身を投じてしまったことが、残念でならない。だいたい、実現の可能性がない理念を、あえて吠えるというのは、王道を歩むべき政治家のやることだとは思えない。

ぼくは宮崎県会議員時代の彼と、少なくとも数十時間、議論したことがあるけれど、上のような政治観をもつ人間であると感じたことはなかった。政治的人間としての松下新平のバックボーンに、上のような価値観がもともとあるとは思えない。彼は実直なまでに家族を愛し、故郷を愛し、当時、自民党所属でありながら企業・団体献金を受け取ったことがなく、政治に誇りをもつ人間であって、上のような言葉をいたずらにもてあそぶような人ではない。

新平君、もう一度、故郷のみかん畑へ帰ろう。そこに住む普通の人たちが、君たちが思い描く「国家」というものに、どのような皮膚感覚を持っているのか、それを感じ直すのが大事なんじゃないか。その根太く、あたたかい、生きることへの意志に、家族を愛し、平凡に生きようとする人々の暮らしに、「国家」というものが時に大きな脅威となることを、腹の底から感じ直すのがいいんじゃないか。それが、政治家松下新平のもつ、大事な財産のひとつだったと思うのだが。

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コメント

失礼な表現かもしれないですが、右翼の街宣車に
貼っつけてる文句のような理念ですね。(^^)
これで日教組云々の文句が入れば完璧ですな。(^^)

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