2008年7月21日

自分を赦すということ

あー、なんか青いタイトルで申し訳ないなあ。
と、浅川浩二風に始まるわけですが。

こないだ、目を閉じて仰臥の姿勢で気功を受けていたら、何度か「あー、そーか」「あー、そーか」とワタシはあーそーか星人と化してつぶやいていたそうであります。頭の中はサトリの嵐だったのでしょう。

せっかくのサトリだったのに、それがなんだったのか、ほとんど忘れてしまったのだけど、ひとつ覚えているのは「自分をゆるすというのは、人をゆるすことよりもずっとむずかしい」ということ。どうして覚えているかというと、そうつぶやいたところ、気功の先生が「そう。容赦ないものね」と答えてくれたわけです。

まさしく、人は自分に対して容赦ないところがある。ワタシのような甘い人間でもそうなのだから、世の多くの皆さんはさらにそうなんではないかと思うわけです。「容赦ない」という、ただならぬ言葉を返してくれた気功の先生もきっとそうなんでしょう。

克己という言葉があります。敵に勝ち、己に克つなんてこともいいます。基本的にオノレというものには勝たなくてはならない。それ以外に道はなく、オノレに負けたものにはきっと想像もつかないような悲惨が待っているのだと、われわれ、信じ込んできたように思うわけですが。

でも、たとえば克己という言葉の成り立ちを考えてみると、まずオノレというものは弱いものであるという前提がある。オノレに克てないで敵に勝てるかという、昔スポ根ドラマなんかでよく聞いた理屈は、とりあえず敵よりもオノレの方が弱いという認識がなくては出てこない。そのオノレに克つオノレというのは一体なんだという議論はおくとして、ニホンでは古くからオノレ=弱いものという、ほぼ誰も疑わない共通認識があったように思うわけです。

ワタシもそれを疑っておりません。やはり、オノレは弱い。特におれのオノレは非常に弱い。

それならば、まずその弱さを受け容れてしまわんことには、強がりばかり言ってても仕方がないではないんではなかろうか。大体、他人を許せるのは、ほんとはしょせん他人のことであるからで、まずもっとも許し難い行いばかりを為す自分を受け止めることができなくて、いかに他人を受け止めることができようかと。目を閉じて仰臥の姿勢で気功師の老婦人に身をまかせながら、ワタシは考えていたのでした。

外柔内剛。これは遠い理想ではなく、内実を問わなければ、案外、多くの人ができている。むしろ内に向かう刃の、容赦ない鋭さの方が問題のような気がするし、それが外に向かう柔の部分を優しさという名の無関心のようなものに変質させているような気もするわけで、この際、みんなで自分を赦しまくってですな、ぱーっといきませんか、ぱーっと。と、「社長シリーズ」の三木のり平となって、ワタシは町へ繰り出していくわけであります。

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まあ、他人は何とでも言うわけですが、何に対して強いのか何に対して弱いのか人それぞれですねぇ。 でまあ、「強し」と「毅」というのはちょっと違う訳ですね。「強... 続きを読む

コメント

あーまー、そうだね。私は自分の弱さを知っている上で、自分を許す・・・自己肯定しているから強くもなれるのだと思うな。

「こーんな下らない人間ではございますが、これが私です。さて、そこから何を始めましょう?」

みたいなスタンスが必要。その自分の下らなさに必要以上に落ち込む必要も無いし、必要以上にカッコつけても、カッコ悪い。反省は必要だが後悔は不要って感じ。

どちらにしろ、全ての原因は自分にあるのだから、その事を自覚しないで物事を解決しようとしても、暫くしたら同じ問題が形を変えてやってくるだけだね。

んで、「すべての原因は自分にある」という視点は、最終的には「生まれてきた事に原因がある」という事になるので、実は自己否定も含まれている。

でだ、自己肯定と自己否定をどのようにバランスとるかであるが、結局の所、そこには人知を超えたパラダイムを導入せざろう得なくなるという事だろう。

そうなると、やはり「命」そのものが、我の物ではなく、与えられた物でと解釈するのが一番自然だと思うのね。そこに「何かの使命」とか「役割」という概念を与えた方がすっきり納得できる。

つまり、因果律的に自己否定出来たとしても、存在そのものを否定してはいけないから、そこに意味づけする必要性があるのだ。

なんかトラックバックを読むと、似たようなことを考えていたのね。

書きながら「放下」という言葉を思いだしたのだけど、期待とか夢とか目標とか、そういうバイアスのかかっていない素の自分を、時たま思い出せよってことなんだろうと思う。というか、それを見失ったまま走っても行き先も出口も、いずれわからなくなるんじゃないかと。

ものすごく向上心はあるのだけど、その向上心にとらわれてしまって、自分を見失ってるような人が時々いて、山下洋輔はその状態を「寄り目になる」と表現しているのだけど、そりゃまずいわね。

まあ、今回書きたかったのは、もう少し自省的というか、なんか日々自分で設定した望ましきフレームの中だけでうろうろしているのは、よくないなあ。ということくらいなのでした。できんもんはできん。と、人が言ってくれないのなら、自分で言えばいいじゃんかと。

大体、負け方を知らない人はこわい。それは、自転車に乗ってて転び方を知らないようなもので。ああ、今日は負けたけど、ちょっといいところもあったから、まあいいか。明日だ、明日と。最近の王監督みたいな感じになれればいい。その王さんだって、昔は一敗一敗に深刻だったけどね。

先日は楽しかったです。ありがとうございました。
今度、こうじさんとアヤ町に遊びにきますね!
また、いつでもどうぞ!
(ゆみ)

ゆみさん

素晴らしい料理をありがとうございました。10種類ものフルコースメニュー(2種類のカレーつき)、とてもおいしかったです。

綾にお越しの節は、ぜひ拙宅にもお寄りください。料理はどうにもなりませんが(^^;)、私がパスタくらい作りますので。

全身全霊のおもてなし、浅川君にもありがとうとお伝えください。

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