2005年8月 6日

通過写真宣言

通過写真、という言葉があるのか、ないのか。

とにかくぼくは、新宿やブエノスアイレスの街角を、鋭くもどんどん横切っていく森山大道の視線に、写真の概念をひっくり返されてしまった。芥川仁がその場になじみ、とどまることから始める写真家だとすれば、森山大道はその場に片端から絶縁を申し込むことから始めているように見える。いや、シーンを横切り、通過しながら、一瞬に何事かを込めてはいるのだろうけれど、ぼくらの解釈とやらは常に彼の視線の速度には追いつかないのだろう。

ぼくらはそれらの写真に驚きや愛着を感じながらも、その解答や解説を森山大道が用意していることはないだろうことを知っている。それは解釈は人次第、などという甘い話ではなくて、解説がいるようなら写真でなくてもいいだろうということや、そうはいっても写真にそんなに意味があるのかいという逆説的な問いかけであったりするものだから、ぼくらは彼の写真を前に感想をもらすことすら躊躇する。

そこにあるのは写真であって、現実ではない。まして言葉ではない。写真的現実というものですらないだろう。一瞬を切りとるというけれど、大体写真に写る一瞬が人に見えているとは思えない。さらにそれを作家性などを込めて意識的に切り取れるとは、簡単には思えない。ただの偶然の産物をありがたがっている可能性すら多分にある。それをすら見透かしながら、どうだいと提示される写真。

構図、露出、テーマ、質感、チャンス。「ここに行けば、○○先生と同じ写真が撮れる」という全国撮影ポイント集。写真のクラブ、撮影会、被写界深度、レンズの使い分け、画角が語る作家の思想とかいうもの。仲間内のあれこれ。写真が写真を無限にコピーする単純再生産。袋小路に陥った狭い狭い写真趣味という世界。常にピーカンで俯瞰であるべき説明的パンフ写真。三角を意識すべき構図。フィルムの粒状性、レンズの味。とりあえずは、そういうところから果てしなくどこまでも逃げ出して、自由になりたいと思う。

そしてまずは、ぼくが住む町や、その隣町、そのまた隣町、さらにまたその隣町で出来上がっているMIYAZAKIというひどく曖昧な区画を、写真の小うるさいもろもろやら作家性とか匿名性などというものからも離れて、ただ通り過ぎていきながら、まるで修学旅行の中学生のように反射的本能的に撮影してみたいと考えた。

それは傍観者の視点と呼べるものではない。見ることがその場への関わりを避けて通れないことを知っているほどの誠実さがあれば、そんな無責任な言葉は使えない。ただし、写真そのものに責任をとるつもりもない。いったい、不可視の瞬間にゆだねるしかない写真という行為に責任をもつなどということはほんとにあるのだろうか。その写真が自分のものであると、ほんとにいえるのだろうか。

シャッターを切るからには、何かがあるのだろうというくらいの放り出し方で撮られた44市町村1000枚のMIYAZAKI 。誰も責任をとる気のない写真。それはドキュメントというほどの意味も思想性もなさそうだし、意気込みほどの飛躍も望めるのかどうかわかりもしないのだが、とにかくも世代的に共有されている暑苦しい幻にも似た視線のポジションから自由になれるかもしれない。

いわれなく固定化された視線は、それ以外のものを見えなくする。それをほぐし、解放することもまた写真ではなかったのか。どうなんだ。どうなんだ。ええ。どうなんだ。という気分なのである。

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