二人のカメラマンと
思うに、最近、芥川仁さんや黒木一明さんと仕事をするようになったことが影響しているのだろうと思う。
お二人とも、カメラマンというよりは強烈な自我(あえて自我という)をもつ写真家であって、こういう人を「ぼくの」作品である出版物に取り込むというのは、それなりのエネルギーもいるのだが、とても楽しいことだった。
芥川さん、黒木さんのことは、また改めて書こうと思うけれど、とにかくこのお二人と過ごすうちに、何かに触発されてしまったように思う。
黒木さんは、ぼくの文章などはまったく読んでいないと思うのだけれど、「ぼくの写真と、あなたのテキストで何かコラボレーションできると面白いかもね」などとも言っていただいた。ちょっと信じがたい発言である。どこか、何か、気が合うのかもしれない。
田村隆一の「荒地」という言葉に出会って、また詩を書いてみようかなあ、と思っていたところだった。宮崎を無意味にほめもせず、軽躁にけなしもせず、広漠とした荒地として定義してみれば、ぐっと気楽になったのだ。荒地から生まれる詩なら、雑草くらいのつよさを備えるかもしれない。
詩への小さな衝動と、同時に、ぽっと心に灯ったのがスナップ写真だった。のかもしれない。
ドキュメントは芥川さんに、風景写真は黒木さんにまかせておけば大丈夫。彼らなら、ぼくのように揺らぎもせず、荒地どころか綾の照葉樹林のような豊かさとたくましさで、「自分」を追いかけながら、結局は世界を掌中にし、そして宮崎という、この豊かなんだか不毛なんだかわからない土地に、みずみずしい芽をふく種を植えていくんだろうと思う。
そうすると。
ぼくが写真を撮るとすれば。
スナップということになるのではないか。
それもなるべくカメラマンの領域から離れてやろうとすれば、一眼レフではいけない。マニアにもなりたくないから、レンジファインダーでもない。コンパクトだ。バカチョンなのだ。28mm一本勝負だ。
風景は、たまたま出会ったものしか撮らない。何かのメッセージを伝えると誤解されそうな人物の風情も、たぶん撮らない。テーマも決めずに、宮崎の街々の、その街角を、店先を、畑を、看板を、猫を、漠然と、ただ単に漠然と撮ってみたいなと思った。
ぼくが撮れるのなら、誰にでも撮れる写真だろう。そんな写真が面白くなるのか。わからないのだが、もうそんなことすら、どうでもいいと思っている。
とにかくネックストラップに小さなカメラを下げて、宮崎の小さな町を歩いてみたいのだ。
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