あー、なんか青いタイトルで申し訳ないなあ。
と、浅川浩二風に始まるわけですが。

こないだ、目を閉じて仰臥の姿勢で気功を受けていたら、何度か「あー、そーか」「あー、そーか」とワタシはあーそーか星人と化してつぶやいていたそうであります。頭の中はサトリの嵐だったのでしょう。

せっかくのサトリだったのに、それがなんだったのか、ほとんど忘れてしまったのだけど、ひとつ覚えているのは「自分をゆるすというのは、人をゆるすことよりもずっとむずかしい」ということ。どうして覚えているかというと、そうつぶやいたところ、気功の先生が「そう。容赦ないものね」と答えてくれたわけです。

まさしく、人は自分に対して容赦ないところがある。ワタシのような甘い人間でもそうなのだから、世の多くの皆さんはさらにそうなんではないかと思うわけです。「容赦ない」という、ただならぬ言葉を返してくれた気功の先生もきっとそうなんでしょう。

克己という言葉があります。敵に勝ち、己に克つなんてこともいいます。基本的にオノレというものには勝たなくてはならない。それ以外に道はなく、オノレに負けたものにはきっと想像もつかないような悲惨が待っているのだと、われわれ、信じ込んできたように思うわけですが。

でも、たとえば克己という言葉の成り立ちを考えてみると、まずオノレというものは弱いものであるという前提がある。オノレに克てないで敵に勝てるかという、昔スポ根ドラマなんかでよく聞いた理屈は、とりあえず敵よりもオノレの方が弱いという認識がなくては出てこない。そのオノレに克つオノレというのは一体なんだという議論はおくとして、ニホンでは古くからオノレ=弱いものという、ほぼ誰も疑わない共通認識があったように思うわけです。

ワタシもそれを疑っておりません。やはり、オノレは弱い。特におれのオノレは非常に弱い。

それならば、まずその弱さを受け容れてしまわんことには、強がりばかり言ってても仕方がないではないんではなかろうか。大体、他人を許せるのは、ほんとはしょせん他人のことであるからで、まずもっとも許し難い行いばかりを為す自分を受け止めることができなくて、いかに他人を受け止めることができようかと。目を閉じて仰臥の姿勢で気功師の老婦人に身をまかせながら、ワタシは考えていたのでした。

外柔内剛。これは遠い理想ではなく、内実を問わなければ、案外、多くの人ができている。むしろ内に向かう刃の、容赦ない鋭さの方が問題のような気がするし、それが外に向かう柔の部分を優しさという名の無関心のようなものに変質させているような気もするわけで、この際、みんなで自分を赦しまくってですな、ぱーっといきませんか、ぱーっと。と、「社長シリーズ」の三木のり平となって、ワタシは町へ繰り出していくわけであります。