ワールドカップも終わり
4年に1度のことだから、一応書いておくけれど、サッカーワールドカップ・ドイツ大会が終わった。なんというのだろうなあ、サッカーがグローバルスポーツであることはJリーグの発足以降、じわじわとぼくにもわかってきたけれど、スポーツとしてあまり感情移入できない。サッカーを観るための訓練ができていないのだろうな。
へんてこなナショナリズムが嫌だということもある。国歌を歌わないとマナー違反で減点、という採点もあるようだ。どうかしている。そんなもの監視してどうするのだ。運動選手が試合前のセレモニーで自国の国歌の演奏時に口を開かないと、あいつはよくないといわれる文化というのは、どういうことなのだろう。
そういえば、スポーツサイトなどで「ワールドカップ(W杯)」と、わざわざカッコつきでW杯と書くことがあるのは何でだろうな。あれではW杯というのが正式名称で、ワールドカップが通称のようじゃないか。なんて、どうでもいいことには目がいく。
一応、ゆうべの決勝戦は朝5時半頃まで観ていた。「それがワールドカップの決勝戦だから」というだけの理由で、別にイタリアとフランスのサッカーを観ようと思ったわけではない。珍しいイベントだし、眠れないから観るかという感じで、われながら盛り上がらない。ジダンの頭突きは迫力があったけど。あの頭突きは、さすがプロで、人を殺しそうな勢いだった。空手家でもあんな一撃必殺の頭突きはできない。
それから、日本戦も全試合を観た。初戦などはハイビジョンからプロジェクターに出力して110インチくらいの大画面で観た。画面は迫力があったけれど、内容はごらんの通り。いちいち言いたくないし、彼らを責めたくもない。もちろん、勝ってほしいと願って観ていたのだけど、日本らしく負けたという印象。日本人は失敗を責めないから、いつまでも強くなれないという声があるけど、人を責める国民性でない方がずっと好きだけどな。
たかだかサッカーではないか。日本においては、まだまだ、たかがサッカーなのだ。Jリーグが始まった1991年の1月、日産自動車と読売クラブの天皇杯決勝戦を、あのでこぼこでツギハギだらけの茶色い芝の上で行われた日本最高峰の試合を、どれほどの人が観たというのだ。視聴率は5.5%だった。それからたった15年で何かが変ったというのだろうか。少なくとも、ぼくはほぼ何も変っていない。
オーケー。ぼくが乗り遅れ組であることは認めます。でもね、オシムさんも言っている(ついでにいうと、自分たちの監督を呼び捨てにする文化も、ちょっとなじめないな)。「日本は、できることとやりたいことのギャップが大きすぎる。負けることもあることを知るべきだ」と。
芝をピッチと呼んだところで何も変らない。ファンが自らをサポーターと称しても同じこと。「サポーターはピクニックに行くようなつもりでスタジアムに来ないでほしい」と、ドイツまで乗り込んだ自称サポーターが言っていた。それを何の頓着もなくマスコミが取り上げる、こういう気持ち悪さがまかり通るうちは、まだだめだ。こういうのに日本の大人はさめてしまう。
日本は日本的にやればよろしい。ゆうべのフランスの1点はシミュレーションだよね、あれはずるいよね、というのが大方の日本人の感性だろう。世界一をかけた決勝戦なんだから、正々堂々、やんなきゃだめだと。でも彼らはそうは思わない。あれは自分のレッドカードとPKを天秤にかけたプレーだったけど、同じことができる選手は日本にはいないだろうし、それはそれでよい。
ボールがサイドラインを割るたびに両手を広げて自ボールだとアピールすることも、イエローカードが出るたびに審判を取り囲むこともできないだろう。日本人らしいとはそういうことで、できないものはできないでいい。その上で勝つこともあり、負けることもあるというくらいでいればいい。
ワールドカップは戦争だと思っている国と、そうでない国が戦えば、前者が勝つに決まっている。日本がそういう国でないという理由で負けたのなら、いい国だということだろう。たかがサッカーなぞが、戦争であってたまるものか。
今のところ、本戦の中継に日本が登場してブラジルやクロアチアとそこそこの試合をした、というだけでけっこうなことだと思う。柳沢や高原を責めたりしても仕方ない。日本のフォワードが点を取れないのは今に始まったことではないし、日本はドイツに乗り込んでからも延々とシュート練習をしなくてはいけないような、要するにそういうチームであり国だったのだから。