Arakimentari

『アラキメンタリ』(トラヴィス・クローゼ監督/2005)。

20歳前後の頃に知った荒木経惟という写真家は、あまりに現代的すぎてぼくにはついていけなかった。ついていこうとしても、そのスピード感に物理的に追いついていけないというようなところがあって、追いつけないものは追いかけても仕方がないから、彼が猛スピードであっちに行ったりこっちに行ったりするのを、ごく時々思い出して、その足跡を、ほんの時々ちらと眺めたり、すれちがうふりをして少し匂いをかいでみたりというような、荒木経惟というのは、ぼくにとってそんな人だった。今でもそんな人だ。

荒木経惟のファンだという人を、ぼくは少し尊敬している。あんなにどこへ行くかわからない人をフォローしていくだけでも、相当にエネルギーがいるにちがいない。何しろ単行本だけで350冊だ。雑誌などのメディアへの露出を考えると、もう日本で起こるすべてのことが、一度この人を通過して視覚化されているんじゃないかという気もしてくる。

もちろん錯覚なのだろうけど、物理的にフォローできないものは、錯覚であるかそうでないかすら意味がない。世の中のすべてを見ることができないのと同じくらいに。こういう場合、結果としての膨大な写真はとりあえず感じるままに感じておいて、その底流にあるひとつか二つかの本質とか真実のようなものを知ればそれで十分、というような逃げ方を、ぼくを含めてほとんどの人がやるわけだけど、この人にかぎっていえば、そんなに簡単ではなさそうだ。何しろ、この人には過去というものがない。人は一度過ぎ去ったものしか、その手につかまえることはできないのだから。

とにもかくにも65歳になった荒木経惟が、今でも圧倒的に元気で、圧倒的な寂しさをふりまきつつ、圧倒的にどこやらへ向かって走り抜けていく、その時代の片隅に、今ぼくが生きているということが、ぼくにとってのかろうじての意味らしきものだろう。徹頭徹尾、個の視線で生きている人を評することや、にこにこ笑顔を作りながら握手しに近寄ったりするということのむなしさを思う。ぼくは荒木にはなれない。なれそうにないものに憧れをもつことは、ほんとにあるのだろうか。