自治会は、何かと刺激的であった。ふだん考えないようなことを、何かと考えた。

やはり注目すべきは募金活動であろう。自治会費の年間4800円を集めることは、班長としての仕事といっていいが、募金は仕事ではない。そもそも論でいうと、自治会が他団体の募金を集めなくてはならないいわれはないわけだ。

ただ、その集金機能と地元の和を優先する人の良さが、各種団体にうまく利用されているにすぎない。なぜ、このようなことが長年まかり通ってしまったのか。

われわれヨソモノは、土地へのしがらみがほぼ皆無であるから、モノゴトの是非はそれぞれの個人が判断し、是は是、非は非の論理の中で生きている。常に独立独歩であり、自己責任であり、少なくとも土地や世間や近所というものの論理が、個人としての論理に優先することはない。あっても限りがある。

ところが、わが自治会のある宮崎市吉村町周辺は、古くは古墳時代から人が住んでいたところであって(わが家も奈良時代の住居遺跡の上に建っている)、少なくとも江戸期から今日までここに住み着いている人が多い。こうなると話はちがってくるわけで、個人と世間の領域の分け方が、ぐっと幅広く曖昧になってくるわけだ。

だから、われわれから見ると思考停止に見えることが、すぐに起こる。今夜も、「まあまあ、長いものに巻かれろではありませんが…」、といった人がいた。「堅く考えなくても」といった人もいた。「やることが大事なんで、足をひっぱるようなことをいっていては何もできない」といった人もいた。

一般論としてはすべてに賛成するのだが、この場合はちがう。ただ、ちがうというのはわれわれの常識の中でちがうので、数百年も千年もこの土地で歴史を刻んできた人々とは、おのずと常識そのものがちがうのだろう。

ここにはムラの論理がまだ生きている。民俗的には貴重だが、ライフスタイルとしてそれに合わせることは困難だ。かつてムラは共同体だったから、それを乱すものは生存できなかった。今ではそんなことはないのだが、気分としてはそれが生きており、批判は無条件に悪となる。上から降りてきたものは絶対だ。問いを発してはいけない。考えてはいけない。

端的にそうかというと、そんなこともないのだろうが、気分としては残っている。そして気分を超える論理をもつことは相当な強さが必要だ。また、日本語の日常語というのは、論理を語るようにはできていない。

「こういう農村的思考停止的全体主義的アジア的わしどーでもいいけん的気分が史上何を引き起こしたか。上から言われただけだといって、かつて日本人がどこで何をしたか。そのようなことを考えると、子供の前でそんな姿は見せられないのである。わずか100円か200円のことだが、人様のお金を預かる以上、是々非々でいくからな。笑わないで見ておくように」

と、高校生の長女には伝えた。

だんだん話がおおげさなことになってくる。