映画>ラヂオの時間

『ラヂオの時間』(三谷幸喜監督/2000)。日本映画専門チャンネルで流れたのをプロジェクターで観た。画質は525iで、どうにか鑑賞に耐えるくらい。これはもう、いっひっひと笑いながら、時に激しく照れながら観ればよい。軽い軽いコメディなのだけれど、映画としては濃密。
この間の『笑いの大学』でも思ったことだけれど、三谷作品の特徴なのかどうか、観ている間はいっひっひと笑いながら楽しく観るのだが、あまりにコテコテのテンコ盛りのせいだか、二回、三回と観ようとは思わない。一度観ればおなかいっぱいになって、胃もたれしそうだ。これがいいことなのか、よくないことなのかはわからない。
中学生の頃、多くの同世代の少年たちと同じようにラジオのパーソナリティに憧れた。その夢は、26歳の時にFM福岡で番組を持たせていただいたことでかなった。その後、TVにレギュラー出演させてもらったり、自分でもプロデュースをしたりして、専門外ではあるけれど、「局」の雰囲気というのはなんとなくわかる。
この映画の舞台は、ベンテンラジオというAM局。ものすごく誇張はされているけれど、関係者たちの躁病かと思うような早口のしゃべりやノリの軽さ、どうしようもない言葉の軽さ、超ものすごいストレス感、なんとはなしの高揚感といったものが、とてもリアルに感じられた。表に現れるかどうかは別として、どこの現場も大体あんな感じを本質としては持っている。言葉がどんどんどんどん、際限もなく上滑りしていって、そこに乗れないことには存在できないような空気は、たしかにあると思う。
そしてこの作品のペーソスの背景にあるのは、これがラジオ局だということだ。ネット社会になった今、ラジオはセカンドメディアですらない。それでも西村雅彦プロデューサーはそのラジオを聴いて中学時代を過ごし、深夜放送に投稿したこともあったりするのだろう。唐沢寿明ディレクターは、テレビをやるつもりで入局したものの、ちょいと何かがどうかすることがあって、ラジオをやっているのだろうか。
最初から二流であることが示唆された場で、ドラマのシナリオ募集にただ一人応募し、最優秀作に選ばれた主婦の作品の生放送。それを元スター、元パーソナリティ、俳優(らしき人)、まったく無名らしき俳優がどんどんぶち壊してしまう。
ついに切れた鈴木京香の作家がスタジオにたてこもり、「私の名前を出さないでください」と叫ぶシーンは、身につまされた(^_^;)。ぼくもこれまでの生涯で、三度ほどそういうことがあった。みんなで寄ってたかって作品がひどくなっていき、最後にはとても自分の名前がクレジットされるのに耐えられないものになる。そういうことが多いか少ないかが、つまり一流か二流かということなのだろう。これまで三度しかないのは、同じクライアントで二度目はないからだ。つまり、こちらが逃げる。誰も責任をとるつもりがないから二流の仕事になるわけで、そんな仕事に責任のとりようもなかろうと思うのだが、やっぱりこれではいかんのかにい。
画的には、三谷作品特有の長回しが気持ちよい。音も音声設計のせいなのか、スワンの音場感のおかげなのかわからないけれど、2chなのにサラウンドみたいな広がりを感じることがたびたびあった。
三谷幸喜は、たしかにものすごいライターであり演出家だと思う。あらゆる才能が彼のところに集まりつつあるし、これからはもっとそうだろう。ただ、今のところぼくにはサービス過剰。面白い映画だったのでDVDプログレッシブで観なおそうかと一瞬思ったけれど、たぶんそれはない。おなかいっぱいだ。