2007年9月12日

映画>破れ太鼓(2)

阪妻親父への同情の理由が、なんとなくわかった気がするので別に書いてみる。

この映画が封切られた時の阪妻の年齢は、ぼくの一つ上でしかないことに気づいた。そして、ぼくの親父が死んだ年は、その一つ上でしかない。時代を経て、この三人がまったく同世代ということになっているわけだ。

うちの親父は、ちょうどこの阪妻親父と同様に40代の男盛りに、会社を倒産させてしまっている。ぼくらは(おそらくお袋も含めて)、その苦しみや無念さを、ほんとうにわかることはなかっただろう。そして、新たに会社を起こして、さてもう一度、裸一貫やり直すかという時に、急死してしまった。

その後の、わが家族の苦しみといったものは、お話にならないようなものであったけれど、数年もしないうちに、ぼくにとってはそれが大きな遺産であることに気づいた。つまり、その後、ぼくは急速に大人になり、変な言い方だけど男になった。阪妻親父の息子たちは、親父の豹変あるいは改心によって、その機会を失ってしまったのではないか。親父というものは、死ぬことで伝えるものがあるということが、ぼくにはよくわかる。

あそこで阪妻親父を殺してしまっては、もちろん映画にもなんにもなりはしないのだけれど、わが家のストーリーとしては、あの直後に親父は死んだ。ちょうどこの物語の、いくつかの可能性のひとつのように。

そういう、どこまで追いつめられるか見当もつかない崩壊の中にいながら、生活力のない木下忠司の次男坊が親父に青い意見をするのは、まあ戦後らしいとも木下恵介らしいともいえるけれど、なんとものんきなものだと思う。あのシーンだけは納得ができなかった。親父の豹変もいいけれど、尊厳は尊厳として保っておかないと、会社も金も地位も失ったあの親父は、この先、息子たちに何を残せるというのだろうか。と思う。

今、阪妻親父やうちの親父のように火の出るほど働きもせず、火を吹くほどの迫力も備えない自分が、むしろ情けなくなる。女子供に何がわかると。この言葉の優しさと厳しさが、今になってわかるような気がするのだ。

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