戦国自衛隊1549

『戦国自衛隊1549』(手塚昌明監督/2005)。

なんだか『亡国のイージス』や『ローレライ』とおんなじだなあと思ったら、原作者が同じ福井晴敏だった。

どこかおんなじかというと、「みずからも守れない国など破壊して作りなおせばよいのだ」と吠える軍人が反乱を起こすところ。台詞の主は、旧帝国海軍の大佐(ローレライ)だったり、北朝鮮の工作員(亡国のイージス)だったり、陸上自衛隊の一佐(本作)だったりするのだが、三度も同じ台詞を聞くと、原作者だか角川だかは、ほんとはこれを言いたいのではないかと思えてきた。

もう、いい加減にしろよ。てなもんである。ニホンが近代的な軍隊を持って以来、60年も戦争なしでこれた時期は今しかないわけで、軍隊の評価としてはそれ以上のものはないではないか。

先制攻撃を受けたらどうするとか、中国や北朝鮮が攻めてきたらどうする。自衛隊は国も守れないではないか。大体、今の日本が守るべきクニなのか、などという幼稚な議論は酒でも飲んでやるといい。ニホンが徴兵制をしいて軍事費をGNP5%くらいにして、教育勅語でも復活すれば、それでクニが300年守れるとでもいうのだろうか。

それならわかるけど、逆だろう。おもちゃを持つと使いたがるのは、政治家も幼稚園児も同じだ。クニにとって大切なのは、民族の誇りなんかではなくて平凡な人々の安逸で平凡な生活なのだ。市井の安逸を憎む精神は、北朝鮮のミサイルよりおそろしい。ニホンの場合、すぐにそういう気分に染まるからな。いざとなると後先考えない逆上民族なのだ。WBCもいいが、勝ったからといってマウンドに日の丸を広げてはいけない。あれは野球をおとしめる行為だった。戦争ごっことはちがう。

こないだ、取材の撮影で古い民家を訪ねた。そのごく普通の農家に灯る白熱灯に照らされた狭い座敷に立っていて、土地を耕し、子を育み、普通の生活を次代につなぐことの尊さにうたれた。この家から西南戦争や日清・日露、第二次大戦に、出征していった人もいただろう。

その薄暗い座敷で100年以上も積み重ねられてきた喜びや悲しみに彩られた、普通の人々の普通の生活を奪ったのは、ほんとに敵国なのか。戦争という名の同国人や、時には隣人ではなかったのか。彼らに必要なものは、民族の誇りなどという青臭いものではなかった。それは敵国の人々だって同様だったはずだ。

映画としては、ガムを噛んだようなもので、ガムとしては悪くない。角川らしいというか、こういう映画もあっていいと思う。