中学校の同窓会
中学校の同窓会で鹿児島へ。鹿児島市立谷山中学校というのが私の母校で、昭和50年卒組が140人ばかり集まった。
よくもこれだけ集めたなというのが、まず驚きである。当時、40人学級がひとつの夢として語られた時代だったから、たぶん1クラスに50人近くはいたと思う。それが12クラスまであったから、総勢600人。そのうちの140人なのだ。高校を卒業すれば、多くが県外に出てしまう鹿児島にあって、卒業後35年経っての、この「集まる力」というのは、並のことではない。
聞けば、各クラスから実行委員みたいなのが一人出て(それをやるための事前の取り組みも、いろいろあったわけだろう)、それが一人一人、手探りでクラスメートの所在を調べていって、今回の開催にこぎつけたものらしい。
クラスごとに分かれた受付に行くと、そこらにたむろしていた連中から、次々に声をかけられる。「おお、ひさしぶり」というしかないのだが、ひさしぶりどころではない。大半は中学の卒業式以来であって、この会がなければ、一生会うこともなかったやつばかりなのだ。
5時半に会場入りして、6時にスタートということだったのだが、そこらでもう勝手に盛り上がってしまって、立食パーティは大変な騒ぎとなる。結局、乾杯の発声は7時頃。先生方も5人も来場され、われわれの担任(ボッチというアダナの名物教師だった)も元気で来ておられた。
とにかく、こうなってくるともうタイムマシンに乗ったようなものである。バック・トゥ・ザ・フューチャーよりすごい世界である。すごいすごいと驚いていると、「お前が一番変わった」と指摘される。どうも、もっと雄大な体格になっていると思われていたらしい。
谷山というところは、われわれの世代の共通項としては、吉田拓郎が小学生までいたところである。今は、田んぼはなくなり、海も埋め立てられてしまったけれど、当時はあの「夏休み」の情景そのままの土地だった。
南北に延びる街の中心部だけ少し高くなっていて、東へ坂を下りれば潮の匂いのする漁師町があり、西に坂を下りれば田んぼが広がる田園風景があって、さらに進んで山に入っていくと、そこにはまた山の暮らしがあった。
海と、街と、田園と、山の暮らしが、コンパクトにまとまっていて、この600人の同級生たちは、それぞれに生まれた土地の空気をまとって、学校に通ってきていたわけである。私は、地形的に真ん中に位置する街の子だったから、海にも山にも友だちを作ることができた。
いろんなやつがいて、思い出はつきないのだが、一人、まあ公人のようなものだから、名前を出してもいいやつがいる。上村武久という。今、鹿児島県警の組織犯罪対策課総括情報官兼組織情報管理室長というものになっている。マルボウのトップということらしい。
子どもの頃から並外れたところのある男で、小学5年生の時に、後に私と彼が通うことになる高校の柔道部の男と喧嘩になって、前歯を折られながら勝ちを収めた。通称は「たっぼん」というのだが、これは「武ぼう」から転じたわけではなくて、小学生の頃、彼の腕を見た一人のばっばん(主婦)が「たっぼん(焚きもの)のような腕じゃ」と感嘆したところからついた。つまり、小学校時代から、松を割ったようなカラダをしていたわけである。
中学3年の時、彼とタイマンになりかけたことがある。何に怒ったのかわからないが、トイレの裏かなにかに呼び出された。事情はわからないながら、こちらも腹を決めたら気が楽になったので「やるならやらんか」といったら、何かを察したらしく「じゃらいね(そうだよな)」といって、とりやめになった。今にして思うと、やっておいても、いい思い出になったような気もする。
並外れた体力があり、一輪車でもオルガンでも、頭の上に差し上げて歩いた。だから、小学校卒業以来、彼が喧嘩をしたというのは聞いたことがなく、むしろそういうのを抑えて歩くような男だったから、今の仕事は天職というものなのだろう。
高校時代は、週に一度くらいのペースで、彼の親戚の家に同級生が4、5人集まって、年上のアニキたちと一緒に過ごした。あれは、長じればたぶん、「飲み方(薩摩の男の宴会)」になっていったのだろうし、酒も出ないでもなかったのだが、私もたっぼんも、当時は酒が飲めず、たいていはコーラなど飲んでいたのだった。
同窓会の二次会は、同級生がやっている天文館のスナックに約60人。ここもおひらきになる時に、たっぼんが相撲甚句でしめてくれた。聞いていて涙ぐむやつがいるほど、いい甚句だった。
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