わりこっぼたち
引き続き、谷山中学校シリーズである。
今でもそうなのか知らないけれど、鹿児島ではちょっとグレたような、まあ当時でいえば学生服のズボンのすそを極端にしぼった「マンボ」をはいているような少年たちを、「わりこっぼ」と呼んだ。わりこっぼにも濃淡あって、単に自我の確立の過程において、ちょっと極端な方向に走ってしまったのもいれば、兄貴がそうだったからというのもおり、中には許容範囲ぎりぎりくらいのやつまでいた。
「わりこっぼ」とは、直訳すれば、「悪さ坊主」か。あるいは一時流行った言葉でいえば「ツッパリ」ということになるのだが、それほど冷淡な扱いを周囲から受けるわけではない。彼らの共通項としては、悪いながらも一応周囲に受け入れられ、時にはそれを特質として愛されてさえいるということがある。
許容範囲を超えた、ほんとに悪いのは「わりこっぼ」とは呼んでもらえず、たぶん、それを指す呼び名もなかった。たとえば、下級生を呼びつけて殴るとか、カツアゲを行うなんてのは、それが仲間の怒りを買うほどのところまでいき、矯正不可能と判断されれば、それはもうわりこっぼとは呼ばれない。
あの頃は、世間に余裕があったのだろうと思う。世の中にはいろんなやつがいる。そのいろんなやつの中に、ちと悪いのもいて、その悪いやつの中にも、濃淡とりまぜていろんなやつがいる。ということを、ワタシのような普通の街の子も知っていたし、彼らの多くは友だちでもあった。周囲の大人たちも、「あん、わりこっぼが」と言いながら、どこか喜んでいるような気配すらあった。そんな連中が、時に、大人になって大きなことをしでかすことがあることを、むしろ楽しみにしていたのかもしれない。
中学2年の頃、そんなわりこっぼたちの教育に乗り出した、一人の先生がいた。鹿児島なのになぜか東北なまりがある老齢の数学教師で、通称を「ジアン」といった。爺やん、である。ジアンは身長が150cmもないほどの小柄・細身の老人であったが、生徒を愛する心は並たいていではなく、学校中のわりこっぼを集めて、特別清掃班というものを作り、自ら指揮をとった。
その数は15人から20人くらい。とにかく、見事な人選というほかないほど、1年から3年までの筋金の入ったわりこっぼを集めた。通常、学校の掃除時間には、各自自分のクラスの床掃除だの、割り当てられた校庭掃除だのをするわけだが、特別清掃班(特掃班と呼んだ)は、いわゆる遊軍であって、台風で木が倒れればそれを運び、雨で校庭に水たまりができればそれを埋め、植木が伸びたといっては剪定をしと、学校中を一輪車を押して走り回っていた。
そこに入れなかった中途半端なわりこっぼたちや、普通の子からも志願者が出るほどの活況ぶりであって、学校中の大ボス、中ボスクラスのマンボ軍団が、ジアンの指揮の下に走り回っているのは、今思うと、教育のひとつの華というべき姿だったろうと思う。
特掃班の男たちは、最初は抵抗もあったかもしれないが、やがて同じような仲間とともにカラダを動かすことの喜びを知り、それが学校中から注目されていくことの喜びを知っていった。ワタシも正直、入れてくれるなら、入れてもらいたかった。なにか、そんな男たちが格好よかったのだ。
その特掃班の大ボスが、上村武久・たっぼんであった。学校中のわりこっぼが集まっているのだから、学年を超えた縦・横のつながりができる。たっぼんは、正確にいうとわりこっぼというよりも、常識外れの体力と正義感をもつ、いわば普通の尺度に当てはまらないような男だったから、半端な悪ガキなどは、一言、ひとにらみでケリがついた。
下級生の番長クラスで、許容範囲を超えそうなのがいると、呼び出して一言か二言、何かいう。それで当座はおとなしくならざるを得ない。彼が3年だった頃ほど、谷山中がおだやかだった時代はなかったのかもしれない。それもまた、ジアンの計算のうちだったとすれば、その知謀の深さは驚くべきものがあると思う。
ジアン先生は、まだご健勝でおられるのだろうか。われわれ全体にとっての、恩師の一人だったと思う。
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