2007年2月17日

本>文楽の「あばらかべっそん」

「あばらかべっそん」(桂文楽 旺文社文庫 1980)。あまりにも有名な文楽の芸談エッセイなのだが、ずっと絶版になっていて、ようやく読むことができた。

生い立ちから横浜の薄荷問屋での奉公時代、桂小南への弟子入り、後の師匠である五代目左楽、名人円喬、オンナの話、芸の話と盛りだくさんで読み応えがあった。正岡容による聞き書きなのだが、文章の構成もよい。

面白さは読んでもらうよりないのだけれど、あの堅そうにみえた文楽でさえ、若い頃はどうにもしょうがないニンゲンであったことはちょっと意外だった。以前、志ん生が「若い頃から、さんざ道楽をやりつくしちゃって、どこにも行き場のないような人間が、芸人でもなるかとこの世界に入ってくるんですから」と書いていたのは、文楽にも当てはまる。

志ん生の文章は、だから吉原がどんなところだとか、長屋のおかみさんはこういう時にどういう口をきくとか、そういうことはこの世界に入った時から知っていたもんだ。今の若い人にはいちいち教えなくちゃいけない、と続く。今の若い衆に教えるのは、もっと大変だろう。

あばらかべっそんとか、べけんやとか、オモンパカッタような次第で、とかは、文楽得意の意味不明語なのだが、どうも何度も繰り返しふれると自分も使いたくなって困る。よッ。あばらかべっそんでげすな。

志ん生が若い頃に凹まされた言葉と似たようなことを、文楽も言われていたことが、ちょっと面白かった。

「お前なんぞ、うまくもなんともねえんだ。正宗だって貞宗だって、銘ばかりで切れなけりゃダメなんだ。くやしかったらその切れ味をみせてみな。邪魔にされて、下ッ端でウロウロしているのは、つまるところ人が買わねえからじゃねえか……」(「なめくじ長屋」 古今亭志ん生)

「オイ文楽君。君なんざ巧くも何ともないんだよ。だけどねえ、いま誰もほかにいねえだろう。ねえから君を巧いというより仕様がないじゃないか」(本作中、川口松太郎の弁として)

たしかになあ。円喬だのなんだのが生きていた時代なら、今の噺家連中なんぞは、ほめるほどの人は一人もいないのかもしれない。まして六代目小さんだの九代目正蔵だの、その高座を見たら、昔の人は驚くだろうなあ。

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