落語>六代目小さん「紺屋高尾」
六代目小さんの「紺屋高尾」。NHK「日本の話芸」。
そもそも、なんちうか。誰がいったい三語楼を小さんになんか推したんだ。と、誰もが言いたいだろうけど、なったものを今さら野暮は言いたくないから黙ってるわけで、それでもこういうものを聞かされてしまうと、野暮は承知で言いたくもなるわけです。
わたくし、この「紺屋高尾」、ここ数年記憶にないことですが、噺の途中でテレビを消してしまいました。それもクライマックスといえる、「わちきは来年三月で年季が明けりんす。ぬしのところへ行っても…」の場面であります。まったく聞けたものではありませんでした。あれなら、こないだのクサくて演出過剰な志ん輔の高尾の方が、よほど落語になっております。
これが小さんでなくて三語楼であっても、あそこでスイッチを切っているところです。まず、言葉があまりに平板。何か読んでいるようです。平板といえば、講談かと思うほど状況説明が多すぎる。落語は対話の重なりで状況を描いていくべきもので、あのくらいト書きが多いと、中に入っていけませぬ。加えて顔の表情にもとぼしく、この噺の聞かせどころを何度か素通りさせられて、どうなってるんだと思っていたところで、あの高尾の台詞を聞かされた日には…。もう、悲しゅうなりました。
こぶ平の正蔵もひどいもんだと思ったけど、最近はなんですか、落語も血筋なんでしょうか。先代の長男であるこの六代目の甥っ子が花緑になるわけで、どうも次の小さんはこの人だという話もあるらしい。冗談ではないですぞ。今、あの伸び悩みの花緑の姿をみて、20年後の小さんとは思えませぬ。今の時点なら、30年後の三三の方が、まだ想像力を刺激します。
ただの名前だからいいじゃんかではなくて、無理でもなんでも小三治に襲名させとけば、世間はまるく収まったはずであるのに、これじゃ六代目はへたをすると生涯しんどいし、そもそも名跡の意味がなくなってしまいそうです。半狂乱になって円朝になりたいという思いを抱き、それがかなわぬまま暮らし、死んだ圓生の執念は、柳や林には無縁ということなのでしょうか。

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