2007年2月 3日

落語>八代目桂文楽

文楽について何か書こうというのはあまりに荷なのですが、はずみですので書くこといたします。小染でその世界に目を開いたものの、その後は、書かれたものをのぞけばとりたてていうほどの落語体験もなく、世の流れのままに生きているうちに、こんなわたくしも世間に出て、しばらく修羅のごとく働かなくてはなりませんでしたので、落語どころではなかったわけです。

そして20代も半ばを過ぎようというある日に、聞いてしまいました八代目文楽の「船徳」。四万六千日、お暑い盛りでございます…。というあれです。これで一気に落語が始まってしまいました。

文楽という人は…、とこう書くだけでも天をも畏れぬ所業のように思われますが、まあ、とにかく戦後からこっちでは、最大・最高の噺家ということになっております。志ん生とどうだ、という人もいますが、互いに生きていた頃は、人気はたしかに二分していたものの、そりゃ比べるもんじゃござんせん、というほどの格のちがいはあったそうで。まあ、これも人によるのでしょうが。

じゃ、圓生とはどうだとなるわけですが、それもまた後世の比較でありまして、圓生さんについては当の文楽が、こんな言葉を残していると、談志がどこかに書いております。

「あれ(圓生)は無駄ばかり。あたしのは全部十八番」。

こんなことを言われて圓生もくやしかったのでしょうが、特に反論もなかったようですので、そういうものだったのでしょう。もちろん、先輩への遠慮もあったでしょうが。圓生は大好きな噺家ですが、後年は人情噺に傾倒してしまって、膨大な数の人情噺をやり、もちろんいいのですけど、ちょっとついていくのに骨というところもなきにしもあらずで…。

そういう文楽ですが、この人はまた対照的に根多数が少ないので知られており、音源も根多の数では三十本もないのではないかと思います。圓生は「圓生百席」だけで百本ですものね。あたりまえですが。

それにまた、この人、立場と格に似合わず、どうも上がり性のところがあったのではないかと思われ、会場に客を入れたライブで客が煮えている時などは、それは見事なものなのですが、スタジオでマイクに向かうとなると、特に入りのところなど、緊張がこちらに伝わってくるようなことがあります。

「船徳」も、今、四つの音源が手元にありますが、一番よかったのは最初にラジオで聞いたライブのもので、いまだにこれに出会えないでおります。手元の音源は、ライブでもスタジオ録音でも、マクラから下げまで、ほとんど同じことを同じ調子でしゃべっているので、意識してそうしていた人なのでしょう。こんな感じ。

出囃子:野崎

ええ。あいかわらず、おなじみのお笑いをもうしゃげることにいたします。昔は、あんまりお道楽が過ぎますというと、親類協議の上、勘当てえことになりまして、お出入りの船宿の二階に厄介になっているという図は、あったんだそうでございます。

「若旦那、ご退屈でございましょう」
「あっはっは、いい心持ちだよ」
「あぁたねえ、幾日何十日あたしんちにおいでになっても構わないんですがね、御身のためによくないからねえ。あぁただって何かやらなきゃいけないでしょ」
「あ、いろいろ心配をかけたがね、こんだあたしはもう覚悟を決めました」
「何ですぃ、その覚悟ぉ決めたてぇのは」
「とにかくあたしゃ、このうちの商売ンなるよ。船頭ンなる。」
「けどあぁたねぇ、その馬鹿げた事を言っちゃいけません。あぁたみたいなか細い体で、船頭なんぞになれやしません」
「なれやしねえったって、みんなやってんじゃねぇか。おんなし人間じゃねえか、俺ぁやってみるよ」
「やってみるて、あぁた安直におっしゃるがね。素人料簡に夏ンなって涼しくっていい。さて商売となって、本当に沖ぃでも出て、ならいでも食らってごらんなさい。あぁた驚くから」
「お前がならせなきゃ、他行ってなるよ俺は」

ここから先も、ほぼ同じ。根多が少なくて、その根多もしゃべることが毎回同じというのは、並の芸人にできるこっちゃありません。それで毎回客を引きつけて、笑わせるのですからね。しかも当座のライバルが(当人がどう思っていたかは別として)、あの志ん生だったわけですから。

ちょっと高っ調子で、華やかな語り。無駄をそぎ落とした楷書の芸。江戸というよりも、明治末期から大正にかけての東京の情景が浮かぶような独自の言葉世界。残された音源では、「船徳」、「明烏」、「寝床」は、落語が好きだろうが嫌いだろうが、聞かずに死んではいけないという名演。いや、これを聞かないと戦後の落語は何も語れないというほどの定番中の大定番、ということになっております。

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