2006年10月26日

新日を観ること

新日本プロレスの観戦は何年ぶりだろうか。プロレスの巡業というのは、一種サーカスというか津々浦々をめぐる祭り、祝祭の場であることをあらためて思った。ただし、これは昔でいうと全日本プロレスの雰囲気なのではないか。80年代の新日には、わくわくする祭りの高揚とともに、もっと熱さがあったように思う。

第一試合が始まる前、蝶野のサイン会にARISTTRISTのTシャツを買って向かう。オクサンと小学生のムスメ二人とともに記念写真なども撮る。「もう時間がありません」と係の人が言い、控室に帰ろうとする蝶野に「蝶野さん、申し訳ない」と声をかけてサインをしてもらった。蝶野は非常に落ち着いており、なるほど親分としての風格とか人をつつみこむ雰囲気にあふれている印象。

休憩時間は、CTUのTシャツを買って、邪道・外道のサイン会に並ぶ。今、最高に好きなレスラーであるからして、非常にうれしい。「外道さん、あんた天才」というと「ありがとうございます」と小さな声でいう。その声の知性。こちらがバカに思えてしまった。

6時40分に第一試合が始まり、2時間半、きっちりもたせて間延びも退屈もなく楽しませてもらった。最初はこわがっていたムスメたちも、やがて選手入場の花道に駆け寄るまでになる。しめしめ。

それにしても客の少なさ。がらがらだ。その少ない客の中で、最大のパフォーマンスをみせる選手の誠実と凄さ。それによく反応する質の良い観客。たしかに、地上波中継のない今、チケットを買って観にくる客は、ほんとうに好きな人たちなのだろう。

今、テレビで観る新日がもうひとつなのは(最近はよくなってきたが)、ひとつにはカメラアングルの問題もあるように思う。猪木の時代はグラウンドの静かな、緊迫感の高い展開で時間が過ぎていったが、今のプロレスはスタンド中心なのだがら、必ずしも高みから俯瞰する必要はないのではないか。あるいはもしかすると、現場のプロレスと中継で映えるプロレスとは、必ずしも一致しないのかもしれない。

テレビで観ていて間がもたない「対角コーナーへの走り込み」も、リングサイドから見上げている分には臨場感に圧倒されて気にならなかった。プロレスというのは、現場で、あまり細かいことをいわないで、肉体と肉体のぶつかりあいを観る方が、それは楽しいに決まっている。これは昔からの馬場の哲学だったわけだけれど。

今日、印象に残ったのは、まず木製のトンカチをタイツにはさんだ背中を見せて、赤コーナー後方の客にウケていた矢野通。プロレスの文法に沿った動きに入りかけた棚橋を、「死ねや」といって髪をつかんでマットに叩きつける破壊的なムーブも個人的には大ウケだった。あの逸脱と自由さがスイングの素だ。ヒールの特権でもある。

ジュニアは8人タッグだったけれど動きの中心は、やはり外道。この人が技を受けることで試合が成立する流れ。相棒の邪道は動きが少なくて体調がちょっと心配。注目していた石井智宏は、早くも失速気味なのか精彩を欠いた。この人は、170cmの小柄で永田あたりを相手にエルボー合戦に果敢に挑むケレン味のなさが魅力なのだが、今日はいまいちか。元気だったのが越中詩郎と長州力で、この二人のムーブはまさに昭和のプロレスだった。昭和プロレスは懐かしいというよりも、洗練されつくした動きなのだということがわかった。

大木金太郎が死んだ日に、新日の青いマットに、かつて「戦いの大海原」と古館が呼んだそのマットの上で妙に光った平成の上田馬之助、「矢野ピー」矢野通を観ていて、たしかに時代は移ったということを思った。現場のコンテンツとしての新日は、地方巡業といえどもさすがのメジャーであって、満点といえる。それをテレビのコンテンツとしてうまく仕立てていかないと、満点の現場に人が来ない。このあたりがジレンマなのだろう。

ジュニア8人タッグで、4人がほぼ同時に場外に飛んでみせてくれた動きを見ていて、客の一人として入りの悪さが申し訳なくなるような気持ちだった。

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