2006年7月 2日

映画>真昼の決闘

『真昼の決闘』(フレッド・ジンネマン監督/1952)。

さすがに映画オンチのワタシでも、この映画はこれまで3回くらいテレビやビデオで観ていた。おそらくはアメリカが「北高南低」だった時代の、南部だか西部だか南西部だかの、忘れられたような小さな町のお話。メキシコ人の女が経営者として店を営むくらいだから、たぶん国境からそう遠くない町なのだろう。ぼくが4回も観るくらいの映画だから、説明の必要もないだろうけど。

線路の彼方にある「北部」の絞首台から得体の知れない怪物がよみがえって、仲間3人とともに自分を殺しに来る。その自分はさきほど結婚をして、任期が切れてバッジを返したばかりの保安官。一度は妻と町を出るものの、すぐに帰ってきて助手を募ろうとするが、男たちはみな逃げてしまい、結局は一人で4人を相手にすることに。しょうがないから遺書なぞ書いて悩み狂っているところに、運命を告げる警笛が響くわけです。

ものすごく純化された象徴と虚構。汽車が到着する午後0時をめざして、どんどん凝縮されていく時間とドラマ。映画としての完成度はあきれるほどで、圧倒的な作り手の力量に、ただ巻き込まれて時間が過ぎていく。その時間の流れがまた、現実の時間とほぼシンクロしているので、ふと時の流れの感覚を見失うような不思議さがある。考えてみれば、人間が感じる時間の絶対的な長さを計る方法というのはないんじゃないだろうか。時計の針だって、時間を空間の運動に翻訳しているようなものだろう。

決闘を前に、棺桶屋が仕事を始めるところは、約10年後に撮られた『用心棒』で再現される。そういえば忘れられた小さな町という設定や、人気の消えた町並みなぞもそっくりだったな。象徴の浮かび上がらせ方という点で、はっきりと共通点を感じるのだが、黒澤がジンネマンに寄せたオマージュだったのだろうか。

ところで、なぜ彼は戻ってきてしまったのか。少なくとも義務ではない。背負う責任としては重すぎる。正義というには、あまりにも理解者がない。妻にすら理解されず、唯一理解していそうだった元彼女は、さっさと汽車で行ってしまう。

義務といい、責任といい、正義といい、愛というも、そういった言葉は、必ずそれが著しく希薄なところに発生して、あっという間に薄められて消えていく。世界が愛と正義に満ちた場所であるならば、愛も正義も人をしばることはないだろうから。

そのむなしさをすべて引き受けて、ことをなしとげ、しかも銃のみによって正義がなしとげられたことのむなしさをまた感じなくてはならなかった彼ができることは、ヒーローにならないために、バッジを路上に投げ捨ててしまうことだけだった。

全然ハッピーエンドじゃない。自分を守るために嘘と見栄と詭弁を重ね、ずたずたになった人の心というのは、置き去りにされたままだったのだ。これを誠実と呼ばなくてはならないジンネマンの厳しさに、ちょっとひるむわけだけど、このくらいきれいさっぱり人の弱さと嘘があばかれてしまえば、またそこから築くものもあるんじゃないかと思う。

映画の言葉。

「その通りだ。」

この人、決して反論をしない。弱いからではない。

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