映画>柳川堀割物語
『柳川堀割物語』(高畑勲監督/1987)。
高畑勲が9か月ほどもロケして撮った、柳川の水路をめぐる16ミリのドキュメント映画。製作は宮崎駿。完成直後に上映会をやって以来、20年ぶりに観た。
柳川という町は、もともと有明海に面した低湿地で、いや、低湿地というだけでは足りなくて、いわば干潟の粘土の上に水まじりの土壌が広がっているような土地であって、ここをとにかく掘って水はけを良くし、さらに堀った土を盛ってかさ上げすることで、どうにかこうにか安定した土壌を作って、その上に400年の歴史を刻んできた。
南筑後平野から佐賀平野の一部にかけての、有明海に面した一帯は、ほぼみなこのような事情の上に成り立つ。筑前を朝鮮半島に向かう海の文化だとすれば、筑後は泥海の文化だということができるかもしれない。その泥の海は、もちろん豊穣の海でもあるのだが、そこに住もうと思えば、一工夫も二工夫もいる。中世以降の営々とした土地開発の歴史は、ここに人が住むための乾いた土地と、潮気のない真水をめぐらせるための努力の歴史だった。堀割は、その両方をもたらす高度な装置だったのだ。
柳川の水路の全長は旧市街地だけでも470キロを超す。下流には干満の差の大きな有明海を控え、その海水が逆流しないための仕掛けをはじめ、各所に水を「もたす」ための知恵が込められ、まるで人体を体液が環流するような複雑で精妙なシステムがある。
考えてみてほしい。高低差のほとんどない狭いエリアに網の目のようにめぐらされた470キロの堀割の、どこか一カ所で水が滞るだけで、そのシステムは機能しない。昭和30年代までは(皮肉なことに上水道と水洗トイレが普及するまでは)、堀割の水を飲み水に使っていたのだから、その長大な水路にはいつも新鮮な水が流れている必要があった。
そのような町にとって水路は生命線だったのだが、上水道の普及によって水路の公的な性格が薄れ、浄化槽や台所の水が直接流れ込んだことで、昭和40年代から50年代にかけて急速に汚れた。さらに不法埋め立てやゴミの投棄、はびこる水草などで水が流れなくなったことが、汚染に追い打ちをかけ、柳川は人々が汚水に囲まれて暮らす町になってしまっていた。悪臭と蚊が市内全域を覆い、新聞はブン蚊都市と皮肉を書いた。
昭和52年。この水路を埋め立て、あるいは暗渠にして、駐車場を作ろうという計画が、市議会を通り、国・県から補助も決まった時に、実行部隊の係長が市長に直訴し、待ったをかけた。男の名は広松伝という。
かつて柳川の家々には、必ず「ためます」というものがあった。家庭で使った水は、土に掘った穴に溜め、その上澄みだけを流す。たったこれだけのことで、400年間、堀割の水は飲み水に使えるほどの清さを保ってきた。これは、石井式合併処理浄化槽の石井勲先生(元第一工業大学教授/環境衛生学)が提唱された「個人下水道」の思想そのものだ。家庭排水をパイプで集めて一カ所で処理するのではなく、家々で個々に処理することで、高度処理が安価にできるだけでなく、水がどこからきてどこへ行くのか、目に見える形にすることができる。
蛇口をひねれば水が出て、それは数秒もたたないうちに視界から消え、暗黒の下水へと飲み込まれていく。これでは、水へのイマジネーションがもてない。それが結果として、日本の水環境をだめにしてしまったと、石井先生は説いている。
石井式浄化槽は、BOD1ppm以下という性能をもつ。これは、ほぼ渓流の水だ。ぼくはこの処理水を飲んでみたことがある。たしかに、この浄化槽が普及すれば日本の水環境は変る。その石井さんと広松さんは、同志的な連帯で結ばれていた。どちらも強烈な筑後弁を話し、熱い。
映画を観ながら、ぼくは広松さんには二度しかお会いしていないことに気づいて、ちょっと驚いている。ずっと心の中にいる人だった。その野武士のような風貌と、金輪際変らないだろうと思われるネイティブな筑後弁、その微笑。
最初は、1987年。この映画ができてすぐに上映会をやる企画が持ち上がり、インタビューをさせていただいた。二度目は、1996年、ラジオで水の浄化にまつわる番組を作った時に取材させていただいた。
この時は、石井さん、広松さんと三人でうなぎを食べた。ずっと年上の方々なのだが、ぼくもタウン誌の編集長をしていた久留米を離れてから、ひさしぶりの柳川でもあり、互いに再会を喜ぶという迎え方をしていただき、ありがたかった。
その夜は、広松さんのご自宅で、有明海に船を出して獲ってこられたイイダコのゆでたのを、しょうが醤油で食べさせてもらった。このうまさは忘れない。有明の豊かな泥が育てた滋味にあふれたイイダコだった。広松さんは、かつてトラックで掘りに行ったというアサリが全滅状態であることを憂いておられた。堀割の次は、有明海をなんとかしようと思われていたにちがいない。
思い出話になってしまったけれど、ぼくにとって男といえばこの人、サムライといえばこの人、英雄といえばこの人なのだ。
先日、その広松さんが2002年に亡くなられたことを知った。64歳。柳川の堀割をよみがえらせた人、という紹介のされ方を、たぶん広松さんは嫌がるだろうし、たしかにあの水路は一人の力で蘇生したのではないけれど、広松さんがいなければ、今頃は暗渠になり、地盤沈下で柳川の町そのものの存続が危うかっただろうと思う。
公務員には痛烈な逆風が吹き、なり手もいないほどの時代になったが、この映画を観て、国やふるさとに身命を捧げるサムライ行政マンが一人でも二人でも生まれてくれればと思う。
広松さんは、最初のインタビューの時にぼくが撮った写真を気に入ってくださっていて、「生涯で最高の写真。あなたの名前は思い出さなかったけど、この写真であなたのことはずっと憶えていた」とおっしゃっていた。葬儀には、もしかするとその写真が使われたのかもしれない。確かにそれは、おだやかでちょっと照れたような、いい笑顔だった。
当時、ぼくは生意気ながら石井勲先生の影響で水循環の考え方を、仕事を通じて広げたいという意欲に燃えていた。そんなぼくが、石井さんの同志である広松さんと、なにがしか心が通うことで撮れた写真なのであったとすれば、このくらいの幸せはない。

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