いちろうさんの釣れない釣りについて
明石に、いちろうさんというえび撒き釣師がいる。
いちろうさんは私の前の代のSYSOPで、私にとってはえび撒き釣りというなんとも優雅な釣りを教えてくれた師匠でもある。この釣りは、淡水に棲むスジエビやヌマエビをぱらぱらと撒きながら、チヌやメバル、アイナメなど季節ごとの魚を釣る関西伝統の釣りで、紀州のへら竿師はもともと、このえび撒き釣り用のチヌ竿のノウハウをヘラブナに活かした。
釣り人の方でも、大正から昭和初期にかけてヘラブナ釣りが盛んになってきた時、「池のチヌや」というような受け止め方をしたらしい。
ナイロンハリスもリールもない時代、つまりのべ竿に本テグスという仕掛けで大きなチヌを釣ろうと思えば、竿の方を軟らかくするしかない。そんなわけで、いちろうさんからいただいた師光という竿師のチヌ竿は、胴調子の超軟調竿だ。ハリスも06号まで。それ以上をかけると竿がもたない。いちろうさんはそんな道具で、40センチまでのチヌを釣る。それ以上になるとあきらめて無理に引き合わず、わざと逃がしたりする。
「それでも昔は尺2寸なんて夢でしたから。今は幸福ですよ」
そんな釣りである。
そのいちろうさんが、えび撒き釣りをやめてしまう時期がある。えびの抱卵期だ。「卵をもっててかわいそうやから」という。こんな人の前で、乗込みのチヌ釣りの話はしにくい。
日頃は気難しいチヌが、ちょうど今じぶん、産卵期になると浅場にやってきて大胆に餌をあさる。釣り人にとっては夢である50センチオーバーの記録ものに出会えるのもこの季節だ。チヌにかぎらず、バスでもスポーニングは絶好の釣り期とされているし、フナでも鯉でもメジナでも、遠い海で産卵をする魚をのぞいて、春から初夏にかけての産卵期は、よく釣れるし味も良い。山上湖のヘラブナのように、その時期をはずせばほとんど釣れないという釣りもある。
たぶん、いちろうさんは乗込みのチヌをやらないのだろう。そういえば「へらは真冬が一番面白い」ともいっていた。どうして、と訊くと、「釣れないから」と。
釣れる時期に竿を出さない。キャッチアンドリリースどころか、餌の卵の心配までしてしまう。
この優しさはどこからくるのか。そもそもそれを、優しさを呼んでいいものなのかどうか。極道もん、という言葉を飲み込みながらいちろうさんの涼しい瞳を思う。弟子にはまだまだ道は遠い。

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